3月28日。
 春野サクラ、本日24歳。



「こんにちは」
「…あれ? 昨日で最後にするんじゃなかった?」

 一方的にカカシの家に押しかけて、料理を作り、食べ、帰るだけという謎の関係がはじまり、はや数年。
 夕べの夕食の席で、サクラは間違いなく最後にすると言っていたのだ。

 だから、近づいてくる気配には当然気がついたが、少し驚いた。


 でもそんなことよりも、ドアを開け迎え入れるなり告げられた言葉のほうが、100000000・・・・・・・倍驚いた。



「先生、結婚しましょう」
「…は?」


「だってあたし、恋人できなかったでしょう。10年経っても」



 ぱたり。
 開けっ放しだったドアがゆっくりと閉じた。


 一体どこから手をつけていい問題なのかがわからず、しばし絶句する。
 ようやく発せられたのは、おそらく一番見当違いの反応。 

「…おれ、今年いくつか知ってる?」
「38」
「と、とし…」
「大丈夫よ。あたしそこらへんの女よりは先生のこと知ってるつもりだし」

 なんとなく言葉を交わしてはいるが、いまだ頭の中の整理がつかないまま。
 とりあえず年齢は関係ないらしい、が。

「いやでも冷静に考えてみろ。俺とおまえはつい昨日までただの先生と生徒だったはずだ」
「元ね。今はもう夫婦だわ」
「いやまだ返事…」

 大きな金タライでも降ってきたのかと思うような衝撃が、いまだ抜けない。
 なにをはなしているのかもあまり理解できていない。
 確かめたいことは山のようにあるのに、核心をついた質問をできない。

「だ、大体その、…き、気持ち、とか」
「大丈夫よ。あたし先生のこと好きだもん」

 おそろしいくらいに当然のことのように言ってのけるサクラに、一体なにをどうやって伝えればこの戸惑いが伝わるのか、正常な判断ができぬ今の状況で、わかる気がしなかった。
 えーと、と言いよどんでいると、とうとうサクラが切れた。

「なによさっきからぐだぐだ言って!先生が言ったんじゃない!あたしに責任とってもらって、お婿さんになるって!」
「だだだだだってそんなの日常的に言ってたことじゃないか!サクラだってそのたび適当なこと言ってたくせ、に…」

 正直そんなものははっきりとは覚えていない。
 でも、言っていてもおかしくはなかった。それくらいの距離に、ふたりはいた。
 だがそれにしても。

 まったくもって釈然としない態度のカカシに、はあと重いため息をわざとらしく吐く。

「ていうかね、このトシまで恋人ひとり作らず貞操を守り続けてきたあたしの涙ぐましい努力を目の当たりにして、それでも冗談だと思ってたわけ!?」
「えええええ!?て、貞操!?」
「…ええっと、それはウソだけど」
「…だよね」

 嘘、と聞いて少しちくりと胸が痛んだ。
 身勝手なはなしで。
 少なくともここ数年の間は、男の影が見えないことはわかっていたが、師弟として離れていた間のことまでは、わからない。
 さらにくのいちである以上、やはり避けられない事情もあるだろう。

 もしも、好きでもない男と迎えたのだったら。
 と、そこまで考えをめぐらせ、悲しくなる。

「…なあ、サクラ。俺は、おまえに、男として接していたつもりはないよ? たぶんおまえの言うとおり、そこらへんの女よりは、俺のこと知ってるとは思うけど、きっと本当のところは、なにもわかってないだろ」
「そうね、先生はいつだって先生だったわ」
「こわくないのか?」

 それも、お付き合いしましょうではなく、いきなりのプロポーズ。
 先生と生徒と、男と女。確かにどちらもふたりに当てはまったが、あくまでカカシの態度は、先生であり続けようとしていた。
 だからこそ寛容に、これまでの妙な関係を続けていた。

「それこそこれまで先生と生徒やチームメイトとしての接し方しかしてなかったんだぞ、それでいきなり結婚なんて冒険、」
「…なにもわかってないのは先生のほうだわ」

 ぴしゃり、と。低い声で言い放たれた言葉に、諭すようなせりふは続けられなかった。

「わたしが10年間、ばかみたいに何も考えないで、子供のふりしてたと思ってるの…?」

 これまで、平然としていたように見えていたのが、ただの虚勢だったのだと思い知る。悟られないよう、気丈に振舞っていただけだったのだと。
 ふるふる、と、震えだす肩。

「先生、いつだって優しいふりして、どこかでわたしたちのこと突き放してたでしょう。全部、わかってるんだから。どれだけ傷ついたと思ってるの。でも、そんなこと、全部ひっくるめて、それでも10年間、わたしはばかみたいに先生のことばっかり想ってたのに、」

 大きな翡翠の瞳から、どれほどぽろぽろと涙がこぼれようとも、決して目をそらしはしない。
 10年間の、サクラの覚悟。

 いつだって利発で強気な子だったから、思い違いをしていたかもしれない。
 彼女はとても繊細な、ただの女の子だ。

「全部、わかってる。それでも、カカシ先生が好きよ。いまさら先生じゃなくなってただの男になったからって、こわがると思うの?こわがっていたのは先生のほうでしょう?」

 そして聡い。

 さすがに、こんな妙な関係を長らく続けて、好意もなしに擦り寄られていたなどとは思ってもいない。
 だが、ただ身近な大人の男に向けた憧憬であるのだと、思っていた。思い込もうとしていた。
 だからこそ、先生の仮面をかぶりつづけたまま、向き合おうとはしなかった。
 まさか、こんな展開になるとは、思いもしなかったが…。

 困ったように笑い、親指でサクラの目じりをぬぐってやる。白い肌。涙の痕が、明日に差し支えなければいいが。

「おまえにはなんでもお見通しだね」
「…そうよ、甘く見ないでよね。ずっとずっと先生を見てたんだから」
「でも、たぶん、きっとまだわかってないと思うよ」

 ここまで言わせて、まだ諭す気か!とまたしてもサクラが切れそうになったとき。
 しかしその言葉は、発することができなかった。


「…なん、で」

 涙を拭っていた指に顎を引き寄せられ、そのまま唇を奪われた。
 一瞬、問い質そうとして口を開いた瞬間、咥内を舌でかき乱される。息ができない。苦しい。

 くらり、と意識が飛びそうになったとき、ようやく解放された。
 糸を引く、どちらのものともわからない唾液。
 
「俺はおまえのこと、ずっと女だと思ってたよ」

 12歳の頃から。
 出逢った頃から、カカシにとってサクラは、くのいちだった。
 たとえ恋や愛や性の対象にはならなくとも。

「うそ、だって…」
「だから、先生ぶってたんでしょーよ。そうだよこわがってたのは俺だよ。ずっと。だから一線を越えてしまうことがないように、俺は先生でおまえは生徒だって、言い聞かせてきたのに、」

 サクラと同じような気持ちになったことは、たぶんない。かけ続けていたブレーキのおかげで。
 それでも、夕食の支度をしているサクラの後ろ姿を見つめるたび、不思議な気持ちにはなった。
 いつのまにか当たり前のように生活に入り込んでいたサクラが、もう来ないというのを聞いて、さびしくなったのも本音だ。

 家庭を知らないカカシだったが、家庭とは家族とは、もしあったらこういうものかな…なんて、あたたかな想像をさせるくらいには、サクラの存在は、当たり前のようにそこにいた。

「あーあ、どーすんの」

 付き合いは長くても、こんな至近距離で見つめあったことなど一度もなかった。
 驚いたせいかすっかり涙は止まっていたが、濡れそぼった長い睫毛は、なんとも儚い。
 サクラは出逢ってから、どんどんと美しく成長していった。それも、カカシにじゅうぶんに女を意識させていた。

「こわくなった?」

 はじめて見せる、男の姿に。

「…わかんない」
「えっ」
「わかんないわよーーーーーー!!!10年間どうせわたしのことなんて、って思ってて、たぶん今日だってどうせふられるつもりで来たのに、急にこんなことされてーーーーー!!!」

 ばかぁぁぁぁと力なく、また泣き出してしまった。
 泣きたいのはカカシも同じだった。かたくかたくかけていたブレーキを、ようやく解放したというのに。
 したらしたで、拒まれるなんて。

「もー、サクラがどーしたいのかがわかんないよ、俺は…」
「…覚悟、できてると思ってたの。でも、違ったみたい。わたし、断られる覚悟しかできてなかったみたい。どうせ先生はわたしのこと生徒だとしか思ってないに違いなくて、先生が結婚してくれないならもう一生誰とも付き合わず、先生みたいにすさんだ生き方してやるって覚悟しかできてなかったみたい…」
「おいちょっと待て!誰がすさんだ生き方だ!」

 なんだよそれ、と思わず噴出す。
 うううと唸り続けるサクラを、生徒としてではなく、女として、はじめて抱きしめた。かつてよりだいぶ体格差は縮まったが、それでもすっぽりとおさまる体。
 
 いとおしい、と思う。心から。

「でも俺、結婚しますなんて言ってないよ?」
「…先生わたしを弄んでるのね」
「心外だな、ひとのことここまで振り回しといて」

 10年間、閉じ込めていたのはサクラだけではなかった。
 先生という覆いをはずしてしまえば、男をさらけ出すのは、あまりにも容易かった。

「ねえ訊くけど、今日プロポーズするつもりなんだったら、どうして昨日で最後って言ったの?」
「…ごはんを作りに来るのは、最後って言ったの」
「…なるほどね、」

 つまりはそのままここに居座る気だったのだろうか。
 ふられるつもりなどと言っておきながら、なんとも強かな。
 思わず苦笑すると、あとね、と控えめな声で続けられた。

「先生が、ちょっとはさびしそうにしてくれるかなって」

 ふられるつもりでも、少し、求められた気持ちになりたかった。
 たしかに認めたし、じゅうぶん意識した。サクラの存在を、より。

「…だとしたら、うまくいったかもね」

 抱きしめていた腕をはずし、身を離す。
 え、と戸惑いの表情を向けてくるサクラに、棚から取り出した小さな箱を、開きながら差し出す。
 サクラの戸惑いの表情は、広がるばかりだ。

「サクラ、誕生日おめでとう。結婚しよう」


 今度はサクラはたっぷりと絶句する番だった。




(20140126/2006年サルベージ)
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