たらあり。

 頭皮で汗が流れ落ちるのを感じる。
 もう拭う気にもならない。
 夏用のさらりとした肌触りが売りだった敷マットは、背中の汗を吸い込んでしっとりしはじめた。

 最初は遠慮がちに僅かに空けていただけだった窓も、今や全開。女の子なんだから!と小言を言う母の顔が浮かんだが、この蒸し暑さに対する憤りは、寝込みを襲われる恐怖をゆうに超えていた。それでも、夜風が時折頬を撫でる、だけ。気休めにもならなかった。

(明日朝シャワー浴びなきゃ…、)

 そして修理屋に電話をするのだ。突然熱風しか吹き出さなくなったエアコンを恨めしげに見やる。ごろん、と寝返りを打てば新しく触れたマットはさらりとして気持ちよかったけれど、どうせすぐ湿度を含み始めるのだと考えると、悲しくなった。
 眠れない夜は、長い。



 こんな夜が、まさかこれから1週間も続くだなんて。





「あっれー、サクラちゃん、ずいぶんひどい顔だね」

 心に余裕の無いときにわかりきっていることを言われるのは、非常に腹が立つもので。
 いつもは顔を見るだけでほっとするような気持ちになるが、今日ばかりは、悪気無くそう笑いかけてくる彼の下腹に、重たい一発をお見舞いしてやりたい衝動に駆られる。しかし、生憎師匠のお遣いで資料室から運び出していた山のような文献で両手がふさがっていた。

「運がいいわね、カカシ先生」

 なにが、とたずねてくる表情はひどく間抜けで、なんだかその呑気さに腹が立ち、かわいい教え子に会えて今日のラッキーは使い果たしちゃいましたね、と嫌味を返す。
 だがそんな些細な抵抗は実を結ばなかった。当人は攻撃を受けてもどこ吹く風で、なんならどことなく嬉しそうで。
 
「かわいい教え子がどうしてそんなひどい顔してるのか気になるところなんだけど」
「先生珍しいわね、いつもは自分から首突っ込んできたりしないのに」
「んー、ちょっとご機嫌なのよ。長期任務明けで、明日から3日間お休みなんだー。暑いからクーラー効かせた部屋でゴロゴロするつもりー」

 羨ましいでしょー、と目じりを下げてニコニコ笑う顎に頭突きをかましてしまったのは、完全に無意識だった。
 
「あ、ごめんなさい」

 顎をおさえながらうずくまる彼にかけた謝罪の言葉は、我ながら随分と冷ややかだった。
 人間手の自由くらい奪われても、本能のままにどうとてもなるのだなと冷静に考える。

「じゃああの、急ぐんで」
「コラ待て」

 彼にしては随分と乱暴な呼びかけが聞こえた瞬間、背を向けかけた視界が揺らぐ。
 あっという間の出来事だった。受身も取れずに抱えていた資料ごと左肩から倒れてしまった。
 そこではじめて、足首を掴まれていたことに気付いた。一瞬の出来事だった。

「ちょっ…、なにするのよ!」
「それはこっちのせりふでしょーよ…顎割れるかと思ったぞ」

 起き上がり睨み付けると、同じくらい不機嫌そうな顔で迫られる。
 勢いよくぶつけた肩が痛い。せっかく精査して集めた資料が散らばってしまった。おかげでクッションにはなってくれたものの。
 しかしまたこれをきれいに並べ直さなくてはならないと思うと、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。

「なによっ! 元はといえば! カカシ先生がふっかけてきたんでしょっ!!」
「はあー? ひどい顔だからひどい顔って言ったんじゃないの。心配してたのに」
「むかつくのよ! 涼しい部屋で3日間ゴロゴロするとか言うからっ…!」

 はあ?とまた返してくるのに、いっそういらいらとする。
 わかっている。まるでただの八つ当たりだ。わかっている、けれど。落ち着くために呼吸をしようと開いた口が、吐き出したのは息だけではなかった。

「うちのっエアコンがっ壊れてるのっ!一週間毎晩眠れないのっいらいらしてるのっ! 朝からシャワー浴びてドライヤーしてまた暑くなるしっ! 修理は最短で明日って言うし、でもわたし明日から任務で家空けなきゃいけないしっ! でもこれ逃したら次いつになるかわからないってっ」
「サクラ、サクラちゃん、」

 怒りのままに怒涛のごとく言葉をぶつけていると、落ち着きなさい、と両肩をぽんぽんと叩かれ宥められる。
 思えばこんな真昼間のアカデミーの廊下、まだまだ人の出入りが激しい時間帯に、これではまるでいい見世物である。
 気付きたくなかったが、少し遠目から刺さるような視線をいくつも感じた。

「とりあえず資料まとめて、出かけるぞ」
「どこによ、もうこれ以上晒す痴態ないんですけど」
「冷たいもの食べ行こう、おごる」

 別にクリームぜんざいをすぐにイメージしたからではない。奢るといわれて喜んだわけでも。
 ただただこの場から立ち去りたくて、ばら撒いた資料を元の順番に並び替え立ち上がるまでのスピードは、それはそれはもうあっという間だった。

 





 


 ほんのわずかに塩気を感じる小豆と、冷たくて甘いバニラアイスを一緒に頬張る。
 甘味処に着いたころには怒りなんてとうに冷めていたが、なおもすべてを忘れさせてくれるような、クリームぜんざいのひとくち。
 外を歩いていたときは照りつける陽射しが追い討ちをかけてきて、絶対にかき氷にしようと決めていたはずだったのに、やや空調の効きすぎている店内では寒かったかもしれない。やはり、最初のイメージのまま頼んで正解だった。

 向かい合う彼が幸せそうだねとつぶやく。こんなものひとつで…と呆れているのでもなく、きっと心底そう思っているのだろう。そして、そのとおりだった。
 もうひとくち。幸せが染み渡っていく。甘いアイスだけでは物足りないのだ、この、粒が残ったしっかりとしたあんこがいい。今よりももっと子どもだった頃は、舌に残る皮がいまいち好きになれなかったのに。好みとは移ろい変わるものなのだ。

「運がいいわね、カカシ先生」
「なにが? 長期任務明けにかわいい教え子に会えて頭突きかまされて大騒ぎされて冷たいものまで奢らされてること?」
「そうよ。ヒステリックだけど甘いものひとつですぐ機嫌直っちゃうんだから。扱いやすくて良かったわねってこと」

 幸せな気分のまま笑いかけてみると、少しだけ困ったように笑う。
 顔の半分以上を隠していたとしても、長く付き合っていくうちに、何を考えているかなんてわかってしまう。

(困ったふりして、ほっとしてる)

 そうして安心してそばにいてくれるから、均衡のとれた、扱いやすい教え子のスタンスを崩さない。
 そうすればきっといつまででも、彼は今の距離にいてくれる。少なくとも、遠ざかることはない。
 運がいいわね、カカシ先生。教え子が賢くて。

 だが残念ながら、そんなふうに聞き分けのいいばかりの教え子ではないのだ、実際には。
 熱帯夜に苦しむこちらの苦悩も知らず(当然知るわけも無いのだが)、呑気に休みを謳歌するなどと言うからだ。
 もっと困らせてやろう、そんなよこしまな気持ちがよぎる。
 残念だったわね、カカシ先生。教え子がずる賢くて。

「ねえ先生、明日から3日間暇って言ってたわよね」
「暇っていうか…まあ、そうだけど」

 もうひとすくい、ぜんざいを口に運んで、きらりと光るスプーンを咥えたまま上目遣いでじいと見つめる。

「留守番頼めない?修理の人が来る間だけでいいの」
「…」

 ほら、わかりやすい。
 さっきよりもずっと困った表情を浮かべて、答えあぐねている。

「いのも十班の任務でいないって言うし、両親もちょうど旅行中なのよね」

 代替案を持ち出される前にこちらからすべての出口を塞ぐ。
 いつまでもかわいい教え子としか思っていない先生への、これはちょっとしたペナルティ。

「顎に頭突きかまされた挙句こうやって甘いもの食べさせてあげてるのにまだ?」

 まだ。そうよ、まだ、まだまだ、足りない。
 わたしの心を奪った罰だわ。
 先生さえいなければ、きっといまごろハンサムな彼のひとりやふたりいたはずなのに。
 いまだに先生の手の届く距離で、居心地の良さから抜け出せないでいる。

 腰のポーチをあさり、指に触れたギザギザのそれを取り出した。
 見せ付けたのは、鈍く光る銀色の鍵。
 不在の間、男を入れることの意味。

 わかってるのか? とでも言いたげに、さっきよりもずっとわかりやすく困った顔をするこの男に、すっかり信じきった無垢な笑顔を向ける。

 さあ? わかっていないのは、どっちでしょうね?




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(20150809)



まとまりが悪くなってカットしてしまったカカシ先生サイドも(貧乏症)ほんとにちょこっとですが→こちらから