「茜ちゃん、こっち」

 ニット帽の男が、喫茶店の窓際でこっちこっちと手招きをする。
 やわらかな日差しを受けて、なんとも暖かそうだ。

 最近は事務所を訪れても、姿を見かけることがなかった。一緒に住んでいるはずのみぬきですら、最近見ていないのだと言うのだから、どこで何をしているのかと思ったが、今朝方、普通に連絡がついてむしろ拍子抜けしたのは茜の方だった。

「すみません、お忙しいところ呼び出しちゃって」
「そちらこそ、公判の朝にお忙しい限り」

 さすがに知っていたか、と苦笑いを浮かべながら、向かいの席につく。
 なににする?と問われ、ゆっくりとお茶するほどの余裕はなかったが、メニューも見ずにコーヒーとだけ告げた。

 家に帰れないほど、と思ってはいたが、特に変わったふうでもなく、いつもどおりのんびりとした様子で、成歩堂はずずずとコーヒーをすする。
 平和な風景だなぁ、と思わず和んでしまいそうになるのをぐっとこらえ、刑事モードに切り替える。

「ナルホドさん、今日裁判所に行かれます?」
「事と次第によっちゃあね、」
「だったら、ぜひ」

 がさごそとかばんをまさぐる。ジップロックの袋にしまわれたそれは、昨日現場で見つかったばかりの証拠品。鑑識の結果、火薬反応があったことまでは突き止めた。

「へえ?」

 テーブルに置かれたそのビニール袋を手に取れば、興味ありげにじいと見つめていたが、おそらく興味の方向は、そのもの自体に向けられたものではないと茜は察していた。
 案の定、成歩堂がにやりと唇の端を上げている。

「刑事さんが弁護士クンの味方しちゃうわけだ?」
「検事にも報告はしてありますよ?」
「ガリュー検事だっけ? 部下の謀反なんて知れたら怒っちゃうんじゃないのー?」

 いっけないんだー、と口では言いながら、相変わらずニヤニヤしている。
 だっけ?なんて。この人が あ い つ を忘れるはずないのに。何言ってるんだか。
 こんな顔、7年前のこのひとは、絶対しなかったろうな。
 大人の余裕だな、とまるで置いてけぼりを食らったような、複雑な心境だ。

「いいんです。あんなじゃらじゃら検事に怒られようが嫌われようが」
「そう? 向こうはずいぶん好いてるみたいだけど」
「は!? なに言ってるんですか!」

 なにやら盛大に勘違いされているらしい。というか、どこでそんなことを?
 問い質したい内容があまりにもありすぎて、もはやどこから正していけばいいのか、茜にはわからなかった。

「ほんとに何もありませんから!わたしが毛嫌いしてるの知ってて、あの人が勝手に絡んでくるだけなんですから!」
「またまたー、照れちゃって。いやー、若いっていいねー」
「そんなおっさんみたいなこと言わないでください!」
「いや、実際おれおっさんだし」
「…」
「え、ごめん、今の無言はちょっと傷ついた」

 胸を押さえてうなだれるリアクションがすでに古い、と思っても口にしなかったのは紛れもなく優しさだとおもう。

(実際、)

 おっさんだろうがなんだろうが、このひとならばなんでもいい。
 とか、あまりにも子供じみたことを考えたりして。

 少しだけぼんやりしていると、いつのまにやらおっさんぶるのに飽きた成歩堂が、どうしたの、と顔を上げてこちらを見ていた。
 すかさずニッコリ。営業スマイル。

「ともかく、お願いしますね」

 弁護士と刑事。道は違えど、真実を見つけたいという想いは一緒のはずだった。
 少なくとも、このひとは。
 だからこそ、自分のできることで、力になりたいと思った。

 もう、叶わなかったけれど。

 だから、というわけではないが、法介やみぬきの捜査にも、等しく情報は伝えたいと思っていた。
 だが立場上、おおっぴらにそれをするわけにもいかないので、こうして裏工作をうっている。
 個人的には、オイシイし。こうして…

「茜ちゃんに頼まれちゃあねー、…けど、おれは高くつくよ?」

 8歳年下の女にたかる33歳。…いいけどね。
 このひととこうして、テーブルを向かい合わせていられることだけで。
 なんでもないやりとりができるだけで、オイシイのだ。

「ここ、おごります」
「コーヒー、だけ?」
「…だけ?」

 さすがにどうなの、と思わず茜は眉間に皺を寄せる。

「甘いもの、」
「は?」
「甘いもの、食べたい」

 少しびっくりした顔をした後、そーですかー、と半ば呆れ気味にテーブル脇にあったメニューを差し出そうとするのを制される。
 そうじゃなくて、と。

「かばんの中に、あるでしょ?」
「…かりんとう?」
「そ。おやつにするから」

 ちょーだい、と。
 いや、そんなもの、いくらでも。
 ていうか、なんでそんなにかりんとうに固執してるの知ってるのだろうか。この人の前ではそれほどさくさくした覚えはない。となればリークはあそこか?

「…ナルホドさん、かりんとう好きなの?」
「んー、わかんない。ふつう?」
 でしょうね。
「…いま、食べかけ、しかない」
「ん、気にしない。ていうか、茜ちゃんのじゃなきゃ意味ないし」

 意味ない?
 好きでもないかりんとうだけど、あたしのだったら意味がある?

 なんだか、胸のあたりな変にざわついた。

「それってどういう、」

 ことですか、と言いかけたところでタイミングよくやってきたコーヒーに邪魔される。
 ミルクも砂糖もいらないと店員をやりすごすし、それでもさきほどまさぐったかばんに手をやる。すぐ出てくる、食べかけのかりんとうの袋。

「俺を動かすだなんて、それ相応の代償が必要だよ?」
「いや、かりんとうはすきですけど、」

 あなたに比べたら。なんてそれは次元の違う話か。
 まぁ、今日のおやつを失うのは痛いけれど、問題レベルが違いすぎる。

「えー、つまんないなー。もっと抵抗されると思ったのに」
「…は?」
「そうして抵抗する茜ちゃんから、それでも無情にも頂いてはじめて価値がつくのにー」

 …なんっつーおとな!
 思わずがっくりと肩を落とすと、あっはっはといつもの豪快な笑い。
 
 ていうか、ただのかりんとう女としか見られていないのか…と思うと、なによりがっくりきた。

「いいですよう…わたしはかりんとうといつまでも仲良く生きていきますよう…」
「あはは、ごめん、ごめん。そんな大切なものは奪えないね」
「いやだから、」
「ま、いっか!きれいになった茜ちゃんとデートできたし」

 デート!

 やさぐれた気持ちが一瞬にして、まるで思春期のように、射抜かれるようなどきどき。
 デートって!なんてときめく言葉!
 たぶんきっと、目を見開いてしまったと思う。ああやだ、この、露骨な浮かれ方。

 ああでもあたしの思うデートとは、決してこんな薄汚れた白衣と時間がなくて適当にやっつけたメイクなんかで臨んでいいものではない、と思うし、第一このひとがその言葉を本気で言っているとも思えない。

 けど、


(うれしい)

 それはもう、どうしようもなく。
 口元が緩むのを、止めることもできない。




(2010.12.19改訂/初出:note201017)
ナルホドくんの一人称って「ぼく」だったっぽいね…orz 33歳になって変わったと思い込んでいた。
でもこのひと「ぼく」って言いそうにないので「おれ」で通したいと思います。