「あ、いたいた。ミントー!」

 こっちこっち、とナースステーションから手招きするアーチェの姿が見えて、泣き腫らした目を気にしながら、足早に駆け寄る。
 アーチェはミントの一期上の先輩で、ユークリッド病院に赴任したてのころ、あれこれと世話を焼いてもらったのだった。

「アーチェさん、どうかしましたか?」
「クラースせんせが院長から呼び出されてるんだけど見当たらなくってさ…。どこ行ったか知らない?」

 思わずどきりとした。
 さきほどの、病室での出来事がフラッシュバックする。

 抱きしめられた強い腕の力と、大きなぬくもり。
 落ち着くまでずっと、クラースは受け止めてくれた。

 けれどもちろんそんなことがあったなどと知らぬアーチェは、ミントの動揺にも気づいていないようだ。

「さっき、エドワードさんのご家族が呼んでると、わたしに声を掛けてくれたんですけど…」

 それから、クラースに背中を押されて、病室を出た。その後は知らない。
 家族の前では、涙をこらえるのが大変だった。それでも直前に吐き出せていたおかげで、いくらか楽だったのだけれど。

「案外どっかで落ち込んでたりして」
「…でも、クラース先生の力でもどうにもならないなんて…」
「んー…ていうより、精神的なところ?」

 主治医として、自分の担当する患者の不幸を悲しむ気持ちはわかるが。しかしアーチェの言葉にはそれ以上の含みがあるように感じ、ミントは訝しげに見つめ返す。

「エドワードさんとクラースせんせって旧知の仲って言うじゃない?あんなんだけど、救えなかったーなんつって、きっと責任感じてるのよ」
「…!」





 生真面目なミントは、それまで注意することはあれど、自ら廊下を全力疾走することなどついぞなかったというのに。
 脇目も振らず、先輩ナースの注意も耳に届かず、必死にエドワードの病室を目指した。

 だいぶ時間は経っていたけれど、まず間違いなくクラースはあの場所から動かずに、いや動けずにいるのだと、確信していた。


「先生…っ」
「ああ、家族には会えたか」

 患者のいなくなった病室は、寂しい。
 陽も落ちかけ、そんな場所にひとりたたずむのは、もっと寂しい。

 クラースは窓際に立って、外を眺め、まるで普通にしていた。
 だがいつも感じるような、人を寄せ付けないどこか殺伐とした空気は感じられない。
 決して振り返ろうとしない背中が、寂しい。

 普通を装っているのだと、見抜くのは容易いことだった。

「ひとりで泣くのは、ずるい…!」

 せっかく仕事に戻ろうと押さえ込んでいた涙が、抑えきれずに零れ落ちる。
 今日はあと数時間だからと、せめてそれまでは頑張ろうと、彼に背中を押されながら思ったのに。

 結局、つなぎとめるのも、糸を切るのも。

「泣いているのは、君だ」

 すべてが、あなたでしかないというのに。

(ずるい)

 二度目のクレームは、唇の先でぬくもりに溶けた。
 こんなことは、ただの傷の舐め合いでしかないと、どこかでしっかりわかっていたのに。
 
 自然と、広い背中に腕を回していた。

















 就業時間ギリギリにナースステーションに戻ると、たっぷりしぼられると思いきや、一言二言わずかに注意されただけで終わってしまった。
 婦長のミラルドはむしろやさしく微笑みかけてくれたし、他の同僚たちも何も聞こうとはしなかった。

 とは言え全員がそうだったわけでもなく、非難めいた言葉を遠まわしに投げてくる先輩ナースには、自分から夜勤を買って出ることでその場を落ち着かせた。
 それでなくとも、このまま自宅に帰ってひとりになってしまうのが、今はたまらなく怖かった。

「ねーねーミントー、さっきずいぶん慌てていなくなったけど、2時間も行方不明になったのも、エドワードさんと関係あったりするの?」

 すっかり帰り仕度を終えたアーチェが、書き物の整理をしているミントの机に身を乗り出してたずねてくる。
 ずばり確信を突かれてしまい、どうごまかそうかと言い訳を考えたが、いい案はひとつとして浮かんでこなかった。

「あたしも実は最初の頃は、5時間くらい行方くらましたりしてたんだけどね」
「アーチェさん…」
「今だって慣れたわけじゃないし、麻痺してるわけじゃない。でもやっぱりこういう感覚って、あるんだよね」

 アーチェはいつもそうだった。こちらが何かサインを出さなくても、求めていた言葉を簡単に与えてくれる。おかげでずかずかと無遠慮に近づいてくることも、それでいつの間にかチャラになってしまう。むしろ、それが心地よいと思わせるほど。

「なんか辛いことあったらいいなよね。ミントはあんまり人にこぼすタイプじゃなさそうだけど、ためこむのってやっぱりよくないし。…あたしでよければなんでも聞くからさ」

 ね、と大きな瞳がたたみかけてくる。
 自然とこわばっていた気持ちもほぐれ、顔がほころぶ。

「ありがとうございます」
「ん! やっぱりミントは笑顔がイチバン!」

 その顔にはあたしも負けちゃうかもね〜とおどけて言いながら、そのままアーチェはナースステーションを後にしていった。


「んー、やっぱり人の心を掴むのがうまいのよね」
「婦長」

 一緒に夜勤をすることになったミラルドが、夜の巡回から戻ってきた。
 本来なら彼女も夜勤でないはずなかったが、やはり他のナースと交代したらしい。
 もしかしたら気を遣わせてしまったのでは…とミントはたずねたが、ミラルドには笑顔で交わされてしまった。

「ずけずけと言っちゃうから敵も少なくないみたいだけど、なんかどこか憎めないというか」

 どこから聞かれていたかはわからなかったが、どこからにせよ、きっと全容は察しているのだろう。
 アーチェにしてもミラルドにしても、まったく頭が上がらない。

「あなたも、責任を感じることないわよ。みんなの手前注意はしたけど、やっぱりみんな通る道だし」
「いえ…」

 責任感の強いミントにすれば、2時間も抜け出したことは心苦しい。
 しかしそれ以上に、後ろめたい想いがあって。

「さーて、まだ夜も長いし。お茶でも入れる? 患者さんの家族からおいしいクッキーいただいたのよ」

 こうして気遣われることが嬉しくもあり、なにより、心が痛んだ。
(060929)