「おはよう」

 女所帯のナースセンターに、際立つバリトン。
 カルテの整理に忙しかったミントだが、周囲が色めきだつのを肌で感じた。
 あるいはそれは自身の緊張のためか。しかしそれがどちらなのかを判断するための冷静さに欠けていた。

「クラース先生、おはようございます」

 少なくとも仕事中に聞くトーンではない、女たちの声が飛び交う。
 時折それに混じり、男が短い挨拶を返す。

 クラース先生―――看護婦たちよりそう呼ばれるこの男は、このユークリッド病院の優秀な外科医であり、院長のひとり息子である。
 すなわち次期院長と言うポジションは、どうしても目を引く存在であり、その上整った容姿と外科医としての確かな能力とが相俟って、良い意味でも悪い意味でも、高く注目を集めていた。

 もちろんこの病院で働くミントも、医師として尊敬もするし、それに…。
 いつの間にか、ペンを持つ指に力が入っていた。


「おはよう」
「!」

 なるべく意識を向けないようにと注意していたのにもかかわらず、クラースはミントの隣に歩み寄る。
 どきりと思い切り高鳴った胸をごまかしながら、おはようございますと搾り出すだけで精一杯だった。
 
「301号の藤林さんのカルテ、いいかな」
「えっ、あ、はい…」

 301号室の住人は、元気で若々しい初老の男性である。現在ミントが担当している患者の中でもひときわ印象的で、様子を見に病室をのぞくたびに、小一時間は捕まってなかなか離してはくれない。なんでもニンジャとかいう種族の頭領である彼は、孫と体術の組み手の稽古をしていたとき、つい油断をして投げ飛ばされ、しかもとっさのことで受身すら満足に取れず、腰を思い切り打ち付けたのだという。それでも骨に異常はなく打ち身であったが、歳のせいか治りが悪く、大事をとって入院をしている。
 目的のカルテをすばやく探し当て、ミントはクラースに差し出す。

 彼がそれを手にしようとしたときに、指先が触れ合ったのはおそらくただの事故だ。
 しかしその想いとはうらはら、触れ合った箇所が、ただならぬ熱を帯びている。

「ありがとう」

 いつから自分は、言葉以上の含みを求めようとする、いやしい人間になってしまったのだろう。

(いけない)

 同僚たちが黄色い声で騒ぎ立てているのと、自分が抱いている感情はまったく違うものであることに、ミントは早々に気づいていた。
 次期院長に対する色目、アイドルを追うような気軽な気持ちではすまない。いっそそうであったらいくらか楽だったろうに。

 でも。

 なかなかカルテを手放せないでいるミントを、クラースが訝しげな瞳で見つめてくる。

(わたしは、彼を、…愛している)





 はじまりは、看護婦としての医師に対する尊敬。あこがれであり、それ以上でも以下でもなかった。

 クラースは羨望と嫉妬のまなざしで常に見つめられている孤高の存在だ。だが次期院長、外科のエースというポジション以上に、どこか皆が距離を置いて彼に接するのは、クラース自身の性格のためだ。
 彼は一定の距離まで人を近づけない。気安く触れ合うことを許さない。
 生まれつき、病院の院長としての未来を定められ、自由を奪われて育ってきたためか、感情を表に出すことは少ない。つっけんどんな態度も取るし、乱暴な物言いもする。
 だが周囲はそれを甘んじて受けてみせる。そして影ではいやしい言葉でなじる。

 ミントがユークリッド病院に勤務しはじめたばかりのころ、クラースに対する世論の扱いにはひどく驚かされた。
 だがいち看護婦であるミントにはそれを納得するしかなかったが、同意を求められても、なぜだか素直に頷くことだけはなかなかできなかった。


 そんなおり、ミントがはじめてひとりで患者を任されることになった。
 エドワードと言う学者風の中年男性で、人当たりもよく、とてもやさしい。元々身体は丈夫ではない上で、過労がたたっての入院ということだったが、病室を訪れるたびに、世界中の興味深い話を話して聞かせてくれ、はじめてという戸惑いはあったものの、楽しく仕事をしていた。

 とは言え浮かれていたのはそれだけでなく、エドワードがクラースの患者であるということも要因の一つだった。
 必要最低限、業務連絡としての言葉のやり取りしかなかったが、挨拶を交わす程度しか接したことがなかったミントは、少なからず舞い上がっていた。
 噂の君、次期院長。外科のエース。端麗な容姿。どうこうなりたいなんて気持ちはなかったけれど、一緒に仕事をしてみたいと純粋に思っていた矢先のことだ。ひょっとすると、噂の実体はどうなのかという好奇心もあったかもしれない。

 しかしその気持ちはすぐに萎れてしまった。
 エドワードが突然発作を起こし、急逝してしまったのだ。




 エドワードがいなくなり、空になった病室で、ミントは呆然と立ち尽くしていた。
 いつも笑顔で、いろいろな話をしてくれたエドワード。
 ベッドもすっかり片付けられ、まるではじめからこの部屋には誰もいなかったもののようだった。

「はじめての担当だったらしいな」
「…! クラース先生」

 不意にかけられた声に反応が遅れてしまった。確認するまでもなく、クラースであることはわかっていたが、ドアの人影をじっくりと確かめるように見つめた。

「…泣いているかと思った」

 何の意地悪でもなく、単純に思ったことを述べられた言葉なのだと、ミントにはすぐにわかった。
 そういえば、この人と私語を交わすことなど、もしかするとはじめてのことでないだろうか。

「涙は、出ないんです。…なんだか、よく、わからなくて」

 人のいないベッドのあたりに、再び視線が彷徨う。
 数時間前ここにやってきたときは、まだ太陽が真上にあったというのに。
 すっかりオレンジ色に包まれた病室は、物悲しさを助長させているようだ。
 
「わたしがもう少し早くここに来ていたら、エドワードさんは助かったのでしょうか」

ミントが苦しむエドワードに気づいたのは、各々の病室に昼食を運んでいるときだった。
 ついつい世間話が長くなってしまうエドワードは、いつも受け持ちの患者の中では一番最後に病室を訪れていた。彼の食が細いこともあり、しっかり食べるのを見届けるためにも、ちょうど良かったのだった。
 もしも、通常通りのルートで廻っていたのなら。

「誰のせいでもない」
「でも!」
「自分を責めるな!」

 聞いたことのなかった強い口調に思わず息を呑み、緊張する。
 そこではじめて、クラースと目を合わせた。あまりに真剣に見つめてくる瞳が、ミントを捕らえて離さなかった。

「エドワードさんのご家族から、よく尽くしてくれた看護婦に礼を言いたいと言われたよ」
「え…」
「彼はご家族に、いつも君のことを話していたようだよ。楽しそうに話を聞いてくれるから、ついつい長話になってしまうと笑ってたそうだ」

 クラースの表情から、わずかに笑みが伺えた。
 こんな表情もするのか、とまるで第三者のようにミントは思う。

「彼はいつも、君に感謝していたんだ」

 ありがとう、と。
 ふっと、エドワードの笑顔がかすめる。

 その瞬間、堰を切ったように泣き出したミントを、クラースは自然に抱きしめる。
 そうあることに何の疑問も抱かず、そうであることが当たり前のように、ミントは抱きしめられる腕の優しさと胸のあたたかさに安心していたし、クラースもまた、何も言わずにやり場のない想いをじっと受け止めていた。

「…わたし、何もできなかった…!」
「そんなことはない。彼は君に救われていた」

 夕焼け色に染まる病室の影はひとつになったまま、しばらく離れることはなかった。
(060926)