「おっはよー!」

 初めて聞く声。明るく弾けるような、よく通るソプラノ。
 片腕立て伏せ中のクレスの元へ訪れる問診の時間はいつもどおりだった。が、病室に入ってきたのは、いつもの美しい金髪の女性ではなく、ピンク色の髪が鮮やかな、元気の塊のような少女だった。

「…あれ? ミント、さん…は」
「もー。どいっつもこいっつも…」

 クレスはごく自然に疑問として言葉にしたつもりだったのだが、残念に思う気持ちはどうしても隠せなかったのだろうか。少女の盛大なため息に動揺する。

「あのねぇ、ミントだって人間よ!?休みなく働けるわけないでしょ。あんたバカァ?」
「…休、み」

 当然といえば、当然なのだが。

 入院からわずか5日。だというのに、すっかり当たり前に馴染んでしまったこの生活。
 毎朝の鍛錬、そしてやってくる飛び切りの笑顔。安静にしてくださいとたしなめられるけれど、その怒った顔をも見たいと思う。
 だからこそ、いつも当たり前に存在していた日常がほんの少し欠けただけで、ひどく物足りなくなる。
 
「あんたのことはミントから聞いてるわよ。注意しても注意しても気付けば特訓だーなんつって無茶するって。案の定だわね、張り切っちゃってまーぁ」

 少女は近寄ってくるなり、持っていたクリップボードで遠慮なくクレスの頭をひと叩きした。

「イテ」
「でも、大方怒ったミントの顔もカワイーとか思ってるんでしょ」
「(ウッ)」

 図星なだけに反論も出来ず、クレスはすごすごと起き上がり、居住まいを正した。
 見慣れない看護婦は、こちらに何の問いかけもないまま、すでにクリップボードにいくつか書き込んでいる様子だ。

「あーあ、病院離れたらあたしだってけっこーカワイイって評判なのにさぁ。どいっつもこいっつもミントミントって…!あの子の休みのたんびにガッカリされるこっちの身にもなってよね!」
「はぁ…」

 不機嫌そうにそうこぼす看護婦を、クレスはこっそりと盗み見た。
 ミントとはまったく違ったタイプだが、なるほど、改めて見てみればなかなかの美少女である。

「…まぁ、ミントもかわいいし、あたしも大好きだから。ミントにどーこー言うつもりはないけどさ」
「ミントさん、そんなに人気なんですか」
「あんた、さっきあんな態度とっといて、さらにそんなこと言うつもり?」
 
 ギロリとにらみつけられ、クレスは思わず萎縮する。
 もちろん初対面ですっかり目を奪われてしまったほどの美人だ。さらに、まさに白衣の天使と言うべき優しさのひと。個室の自分が他の入院患者と触れ合うことがないため知らないだけで、そう言われたら納得してしまう。

(そうだよな…)

 この病室での生活だけがすべての自分にとって、はじめて知る現実だった。彼女が自分のためだけによくしてくれているという錯覚。冷静に考えれば分かっているのに、この個室でふたりっきりというシチュエーションがあまりにも甘美で、考えるに至らなかった。
 かわるがわるやってくる入院患者、および外来患者、一体これまで何人の男たちが夢を見たのだろう。きっとクレスと同じように、退院することに少しばかり抵抗を覚えた男も少なくないはずだ。

 物憂げな表情でため息をついたのは無意識のことで、おかげで恨めしげに見つめてくる視線にはなかなか気付けなかった。

「…あんたね、ミントの穴埋めにこのあたしが来てやってるってのに、それでも不満なわけ!?」
「え!? い、いや、そんなことは…」
「ああもういーわよ!どーせ二言目にはミントはミントはって…」
「い、いや、でも、あなたのことを一番に想ってる人だってたくさんいますよ!明るくてハキハキした態度とか、元気な笑顔とか、魅力的だと思いますし!」
「…ちょっとあんた、口説いてんの?」
「えっ」

 基本的には嘘のつける人種ではないため、想ったことをそのまま述べたことは認めるが。
 女性との付き合いがおそらく極端に少ないであろう自分に、初対面の女性を口説こうとする解消など間違いなく、無い。
 しかしながら、女性との付き合いが極端に少ないからこそ、ほとんど無意識のうちの口走った言葉に、どれほどの威力が秘められていたかなど、わかりはしなかったのだ。

「んふっふー、あたしはアーチェ・クライン。悪いけどそー簡単には落ちてやんないから、覚悟しなさぁ〜い?」

 なにやら盛大に勘違いされているようだったが、いまさらどのような否定の言葉が通じるのか、クレスにはなにひとつ思いつきもしなかった。
(060914)