「まったくクレスったら仕様のない子ね」
「あはは…面目ない」
ベッド脇に置かれた見舞い客用のスツールに腰掛けた母が、膝に盆を乗せりんごを剥いている。さきほどから似たようなお叱りの言葉を受けては、クレスはワンパターンな謝罪と苦笑いを返すしかなかった。
すべての原因は、自らの力の過信にあった。クレスは物心ついたころから、師範代の腕を持つ父に師事し、それこそほぼ1日も休まず剣術の稽古に励んできたが、どんなに鍛錬を積んだ人間であっても、やはり自分の実力をよく知らなければ、それは無力に等しい。医師から診断されるなり、父にこっぴどくどやされた。
右足首複雑骨折、全治6ヶ月。今でこそ苦笑いなどしていられるが、実は相当なショックを受けていた。
「まぁ、いい機会だし。ゆっくり休みなさい」
「…そうだね」
まさか半年も動けないなど。
考えたこともなかった。呆れるくらい、これまでの半生は剣術の稽古に明け暮れていたのだ。
そんな自分から、剣術を奪われるなど。
たとえ半年だとしても、されど半年。1日さぼれば3日励めと言われるが、半年さぼれば一体何年でいまの自分に戻れるのだろう。…考えただけで絶望的であった。
「まったく、あんな無茶をして」
母はやはり何度も同じ言い方をする。しかし怒って責めたりはしなかった。
クレスとて、後悔していないと言えばうそになるが、あのとき無茶をしなければなどとは思っていない。ただ、もっとうまいやりかたがあれば、と反省はする。
クレスが日課のジョギングを終えようとしていたときだった。時刻は明朝、村がにわかに活気付き始め、民家からは、朝食の支度のための生活音と、思わず胃をやさしく刺激するいい香りが漂ってくる。クレスとて、あとはクールダウンのためのストレッチをして、汗を流してから母の用意してくれているおいしい朝食をいただくということまで含めてが日課。
だがしかし、その日は自宅の道場へ戻る前に、ふと近所の子供が走り回っているのが目に入った。
もう遊びに出かけるのか、ずいぶん早いなぁ、とぼんやり眺めていたが、そのときクレスは、子供の向かいから、猛スピードで走ってくる自動二輪車の存在を確かめた。
「危、―――!」
叫ぶより前に、体のほうが早く反応していた。
二輪車があわや子供にぶつかるという寸前、クレスの体は見事に子供をとらえた。しかし歩道へ着地しようとしたところで、運悪く朝の散歩といった様子の老婆がゆったりと歩いていたのだ。
まさか巻き込むわけにも行かず、なんとか縁石に右足をついて勢いを抑えようとしたのだがたいした効果はなく、結局派手に民家の壁に背中からぶつかった。それでも子供と自分の頭はかばえたのだが、打ちつけた背中は相当痛く、しかも立ち上がろうとすると、なんと右足首がありえない方向にひん曲がってしまっていたのだ。走りのスピードが尋常じゃなかった分、かかる衝撃も尋常じゃない。それを右足だけで受けようとしたのだから、当然といえば当然なのだが。
これが、ことの顛末である。
幸い、目撃していたギャラリーが親切に自宅まで知らせてくれ、さらに負ぶって村の診療所まで連れて行ってくれたのだが、入院設備のないそこでは手に負えないといわれ、改めて駆けつけた両親とともに、隣街のユークリッド医院まで連れて来られたのだ。
病室を用意されるまで父も同席してくれたが、道場を開くためさきほどひとりで村へ帰っていった。帰り際、頭をぽんと撫でられたのは、なんだか少しくすぐったかった。
「…親御さん、泣いて感謝してたわよ。近々御礼に来るって」
「そんな、いいのに」
クレスの言葉に、母は穏やかに笑った。父も母も無茶を叱ったが、なによりも最初に褒めてくれたことが、クレスにとって支えになっていたのかもしれない。
子供も一応村の診療所に見てもらったそうだが、かすり傷ひとつなかったようだ。親子が悲しまないで済むのなら、きっと自分の行為は報われる。それで満足だった。
母が剥き終わったリンゴを皿に並べると、うちひとつをつまんでから、皿ごとクレスに手渡した。そういえば母も朝食も食べずにずっと付き添ってくれているのだ。なんだか申し訳ない。
それでもありがたくリンゴをかじっていると、コンコン、と病室のドアがノックされた。おそらく控えめなのだろうが、古ぼけた木製ドアは、それだけでガタガタとのぞき窓のガラスが音を立てた。
「失礼します」
きれいなソプラノが聞こえてきた。どうぞと母が答えると、やはりガラガラと音を立てながら、木製ドアがゆっくりと開く。
クレスと母がドアのほうに視線を移すと、ひとりの看護婦が笑みを浮かべながら立ってこちらを見ていた。
目を、奪われた。
太陽の光を浴びてきらきらと光る金色の髪。日当たりの良い病室はクレス自身嬉しかったが、その陽の光は、自分の気持ちを明るくさせるためというより、彼女の金糸をより美しくさせるためのものなのだと錯覚させた。
しかし何より―――。
「はじめまして。担当のミント・アドネードと申します」
ベッド脇までゆっくりと近づいてきた看護婦は、自らの名前を告げるとにこりと笑った。
確かにクレスは、年頃の男子としては女性に触れる機会はそう多くはないと思う。とはいえ、女性というものをまったく見たことがないわけではない。
だがしかし、これまで出会ってきた女性たちとは、その存在はあまりにも一線を画していた。
なんて、美しい人なのだ。
最初はきらきらと輝くその金髪から目が離せなかったが、深く笑みをたたえたその顔は、それはもう空想上の天使と称えてもきっと過言ではない。
もし死の淵で彼女と出会うことがあれば、十中八九お迎えだと勘違いしてしまうかもしれない。何から何までが完璧であった。吸い込まれそうに深い蒼色の瞳。すっと通った鼻筋。うすく紅を塗られた唇が、やわらかく口角を上げている。上品な、まるでこの世のものとは思えぬ、美しい笑顔。
生まれて17年、剣術バカと称されるほど日々修行に明け暮れ、恋愛になど現を抜かすことのなかった超真面目人間クレス・アルベイン。
恋に、落ちた。
(060818)