変な女。いや、女と言うよりおかしな奴。
 それが、土方十四郎の、留学生・神楽への認識である。






 授業は大抵退屈であったが、午後の授業となると眠気も上乗せされてすこぶる気だるいものだった。油断しているとすぐ沈んでしまいそうな意識とそれなりに格闘しながらも、出てくるあくびはかみ殺しもせず、カツカツとよどみないチョークの音にノートをとる気もそがれ、土方は視線を窓の外に送った。数学なんて、教科書に載っている公式を見ればわかるものはわかるし、わからなかったら仕方がないのだ。
 この時間は体育の授業もないようで、グラウンドから聞こえてくる音もない。いつも騒がしいこのクラスの面々も眠気と格闘しているのか、結局授業終了のチャイムが鳴るまで珍しく静かだった。

 
 HRまでにはあと1時間あったが、しかしいよいよ完全に教室にとどまる気力と言う気力が失われてしまった。そもそもやる気などなかったが、こうなるともはや教室にいるだけでもひどく億劫なのだ。
 わずかな10分間の休み時間ももうすぐ終わると言う頃、ざわめきに紛れて土方は教室を出て行った。






 晴天である。屋上の落下防止の柵に背中を預けながら腰をおろすと、あごを上向かせ空を仰ぐ。
 細く立ち上る紫煙。深く吸い込めば、胸の中に苦味が満ちてゆくようだった。

 成り行きで風紀委員になど請け負ってしまい、それなりに活動もしているのだが、それでも授業に出たくないときはあるし、いつしか覚えたタバコを無性に口にしたくなるときもある。そういったときは大抵こうして屋上に来て、寝転がる。ごくたまに別のサボリ組と鉢合わせることはあるが、それは本当にごくたまのことで、やはり今日もひとりでぼんやりと時間をつぶせそうだった。

 …と、思っていたのだが。


「こんなところで何やってるネ、多串くん」

 もやがかかりはじめた意識のはしに、独特のイントネーションが聞こえてきた。
 思い当たるふしはひとりしかいなかった。この学校内どころか、ここの地区一体探しても、こんなうさんくさい訛りの人間などきっとひとりしかいない。
 今年になって同じクラスにやってきた、留学生の女生徒だ。特に親しいわけでもない土方の認識としては、おかしなヤツ、ということで精一杯だった。

「さぼりカ?」
「うるせえ、わかってて聞くんじゃねぇ」

 お前こそ、そう言いかけたところで、何の遠慮もなく足音が近寄ってくる。目を向けてみれば、ひらひらと膝上でスカートを躍らせながら、やはり思ったとおりの人物がそこにはいた。
 分厚い瓶底メガネ。両サイドに団子状にまとめられた、非日常的に鮮やかな珊瑚朱色の髪。まったくふざけているとしか思えない風貌は、その存在の胡散臭さの助長に一役買っていた。

「それに多串なんて名前でもねえよ」
「違ったアルか?」

 あまりにも土方の身の回りに馴染んでいたため忘れていたが、そういえばこうしてきちんと言葉を交わすのはほとんどはじめてのことだった。
 多串などとなんのゆかりもない名前で呼ぶのはふざけた担任の影響だろうか。別にプラスアルファの評価で触れ回れなどとは言わないが、せめて本名を伝えるくらいの誠意は欲しいと土方は心から思っていた。ため息を、ひとつ。

 俺は、と言いかけて、結局名前は言えなかった。
 留学生はいつのまにかその瓶底メガネを取り払い、こちらを見つめていた。


 先ほどまで寝転がって見上げていた空と、同じ色、同じ青。吸い込まれそうな、神秘的な。
 そのメガネがはずされただけで、どうしてか非日常的な珊瑚朱色の髪さえしっくりと、そうでなければならないと思わせるほどの説得力を生み出している。 
 認めるのはまったくもってシャクだったが、なんとも…。

「何見てるアルか。エロい目で見られたって銀ちゃんに言いつけるアルよ」
「誰がだボケ」

 前言撤回。
 一瞬見とれてしまったのは、単なるものめずらしさだ。それだけである。

「お前、メガネなくて見えるのかよ」
「これ伊達ネ。単なるキャラ付けのアイテムヨ。長い時間かけてると疲れるアル」
「…へぇ」

 呆れて見せたが、内心ではあまり不用意にはずしてくれるな、と思っていた。
 このメガネの向こうに隠された瞳を、自分以外のどれだけの人間が知っているのだろう。
 なんてまるで恥ずかしいことを考えていると、とうしろう?とやや語尾を上げ気味につぶやく声が聞こえてきた。

「は?」
「あれ、違ったアルか?」
「いや、…でもさっき知らないって」

 怪訝な顔で見つめると、留学生はこれ、と指で示す。ぼうっとした頭でなんとなく持ってきてしまっていたらしい、古典の教科書。薄いけれど枕にでもしようかと思っていたのを今思い出した。そしてその裏表紙の端にそこそこ丁寧な字で書いてある名前。難しい漢字は使われていないがなかなか一発で正しく読まれることがない特徴ある名前。

「よく読めたな」
「オウ。上はつちかたカ?」
「ひじかた。ひじかたとうしろう」

「ひじかたとーしろうクン」

 どうしてか、その声で呼ばれたのは確かに自分の名前だったというのに。
 今まで耳にしたどんな言葉より、胸をざわつかせた。


 そういえばこちらこそきちんと名前を呼んだことはなかった。
 きっちり覚える気もなかったが、忘れてもいなかった。留学生だと紹介されたその初日、黒板に書かれた名前。
 もしそれを自分が口にしてみたらどうなるのだろう。すんなりなじむのだろうか、あるいは。
 なじまずとも、しっくりくるまで呼び続けることを、許してもらえるだろうか。
(20070608up)