「銀ちゃん」

 んー、と声を漏らして首を回す。それなりにきちんと聞いている態度を示すため。
 この春から同居を始めたこの少女は、会話に反応を示さないとすぐに怒ったり拗ねたりするのでひどく厄介だ。
 まさかこの歳にして、プライベートでまで思春期の子供に悩まされるとは思ってもみなかった。

 しかし、誰かと共に生活するなど、一体どれくらいぶりのことだったろう。
 それも家族でも親しい恋人や友人でもない、どこかの国の見知らぬ少女と。突然に。

「なんだよ、学校でイジめられたなんつっても俺は知らねーぞ。やられたらやり返せがうちの家訓だ」
「銀ちゃんなんかに育てられた覚えはないネ。大体やられる前にやってやるアル」

 思春期の女子にしては穏やかでないせりふを平然と言ってのけるのは、銀八が高校で担任を受け持つクラスに在籍する、神楽。
 この春留学生としてやってきた彼女を、なぜだか済し崩し的に預かり、共同生活をしている。

 男性教師と女子生徒がひとつ屋根の下でふたりっきり、そんな夢のようなシチュエーションでも、ふたりの間にはほんのわずかな間違いが、生まれる気配すらもこれっぽちもない。
 誰がこんなガキを、それもこんな強烈で濃すぎるキャラの小娘を、というのが銀八の弁だったが、しかしそれでもあくまで周囲にはかたくなに秘密にしている。それほどしっかりと誇りを持ってついた職業ではないにせよ、今ここで無職というのはさすがに笑えない。

「で、何」
「私の隣の席の男、あいつなんて名前アルか」
「お前の隣の席?お前随分と仲良くなってたじゃねーの、それなのに名前も知らないなんて言ったら沖田くん泣いちゃうよ」
「ちげーヨ。あんなサド興味ねーヨ」

 と言うことは。
 神楽と沖田がたびたびささやかでない喧嘩をしている様子は、時間と場所を問わず何度か目撃をしていたために、隣の席と問われてとっさに浮かんだのだが。

 ううんと唸ってもぼんやりとしか浮かばない教室をそれでも必死に思い出しながら、ようやく思い当たったのは、目つきの悪いひとりの男子生徒。クールな性格と整った顔立ちで女子生徒からも人気の高い(というのは誰かの談)生徒ではあるが、逆に言えばその点でどうにも銀八の鼻につく存在でもある。名前は土方十四郎。簡単な漢字ばかりなのに読みづらいといった印象で、最初のうちに覚えた。

「なに、沖田くんには興味なくて、その隣の席の男には興味あるわけ」
「ちげーヨ。あんな瞳孔開きっぱの男興味ねーヨ」

 ついさっき聞いたばかりのせりふにまるきり似ていたはずなのに、明らかに違う印象を受けた。
 声の調子だって、聞き流していたら気づかないくらい、きっとほとんど変わらなかったはずだ。

 それでも銀八はすっかり気づいてしまった。ああ、わざわざ話を聞く態度を装うことなんてしなければ。神楽の耳まで真っ赤に染まった顔だなんて、見ずにすんだろうに。
 あーあ、青い春ですか。そーですかそーですか。そーおですか!

「…何ネ銀ちゃん。もったいぶってないで教えるアル」
「んー、…多串くん?」
「多串? 変な名前アルな」

 おー、そーだそーだおかしな名前でそのうえおかしなヤローだあんなヤロー。
 女の子にキャーキャー言われても俺は知りません見たいなクール気取った思春期の男なんて、内心どんなどスケベ心を抱えているかわかったもんじゃない。ムッツリよりオープンのほうがよっぽど健全だっつーの。

 変な名前とつぶやきながら、でも幸せそうに笑う横顔から目が離せず。
 これが恋愛感情でないならじゃあ父親の心境?娘を嫁に出すみたいな。いやいやまだ結婚もまだなのにいやいやいやいやそれはないよね。ないって。ないない。

 でもだとしたら今モヤモヤとひどく気持ち悪いこの感情を、一体なんと言い訳したらいいものか。
(20070205up)