(1)




 待機所を出ると、しとしとと雨が降っていることに気がついた。
 生憎傘など持ち歩くタイプではないし、置き傘をしておくような律儀さもない。
 わざわざ傘を買うには及ばないような弱さだが、傘など無くてもと言うには少し強い程度の雨。

 濡れるのは好ましくはないが、足早に帰ればいい。図体のでかい男が小走りだなんて少し間抜けな光景だが。
 そう思い建物を出れば、軒下に見知った桃色の頭が座り込んでいた。

「サクラ?」

 人待ち顔で雨空を見つめるその姿に声を掛けると、安堵したような、どこか期待に満ちたような表情を返された。

「カカシ先生、待ってたのよ!」
「…あれ? 今日なにか約束してたっけ?」

 任務以外についての記憶力に関しては怪しいものがあるから、必死に思考をめぐらせてみたが、そういえばここのところ任務が立て込んでいて、サクラと顔を合わせる機会すらなかったはずだった。

「いいえ、大丈夫。約束はしてないわ。一緒に帰ろうと思って待ってたの」
「なに、飯でもおごらせようっての?」
「ああ、その手もあったわね」

 くすくすと笑うサクラの思惑が読み取れず、ゆっくりと立ち上がる一連の動作を黙って見つめていると、思いのほか顔の距離の近さにたじろぐ。表には出さないが。

「傘、忘れちゃったの。カカシ先生の家のほうがうちより近いでしょ? どうしても濡れるなら、少しでも短い距離のほうがいいなって」

 ね?と首を傾げた上目遣いは、明らかに計算だった。子供のときからの御馴染みのポーズ。
 そして彼女は、自分がそれに弱いことをわかっている。子供のときから。
 しかし昔よりも物理的に縮まった距離と、すっかりと女らしくなったこの眼差しでのこのポーズは、別の意味でとても危なかった。

「…サクラちゃん、その技気安く使うのやめなさいよ。多感な時期の男にはだいぶ攻撃力強いから」
「あら、カカシ先生にしか使ってないわよ。先生、わたしのおねだりには弱いもんね?」

 たったひとりの女の子だったから。そういう意味で言ってるなら、確かにそうだった。昔は。他のふたりに比べたら、幾分か甘いところは見せてしまっていたと思う。
 ソウデスネ、と降伏宣言をすれば、勝ち誇ったようにニシシと悪戯に笑う姿は、子供のまま。

 あるいは、と想像しかけた思考がそれで止められた。
 少し、安心した。

「じゃあ先生、行きましょ」

 そう言って差し出される手を素直に取れば、繋がれた手はそのままに自然と駆け出す。
 小走りで帰るのはなんだかかっこわるいな、と思っていたのに、こうしてみるとやけにしっくりと感じたのはどうしてだったろう。




- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -




(2)




 雨はさほど強くはならなかったが、それでも自宅にたどり着くまでには滴るほどには濡れてしまった。
 とりあえず待ってろ、とサクラを玄関に待たせたまま、タオルを箪笥から二枚取り出しすぐに戻った。
 
 しっとりと濡れて深くなった桃色に目を奪われた。
 と気づいたのは、声を掛けられてからだ。

「…先生?」
「…あ、悪い…」

 へたな言い訳もできずタオルを手渡せば、訝しげな視線を向けられているのに気づいたが、気づかないふり。

 おそろしいな。
 あの頃の女の子のまま、と判断したのはやはり早合点だ。
 サクラが、ではない。問題は、自分にあった。

 妙な考えが浮かばないうちに視線をそらし、濡れた身体を拭き取っていけば、いつしかサクラもこちらを伺うのはやめていたようだった。
 ほっとした。

 申し訳程度に濡れた体を拭き取ったタオルを受け取り、来客用のカップはあったかな、と思案する。
 あったとして、さらに戸棚に常備してあるのは、自分で飲むためのインスタントのコーヒーか、いつかの香典返しで貰った未開封の緑茶(しかし、急須が無い)。
 生憎女の子が喜ぶようなお茶請けを用意しておく律儀なタイプでもない。

 しかしサクラはそんなことは見越していて、自分で持ち込んだペットボトルのお茶を2本、鞄から取り出した。

「はい、先生。今日差し入れで貰ったの。お邪魔しちゃったから、1本あげるわ」

 病院勤務だと、いろいろとあるそうだ。来患からの差し入れは基本的に受け取らないことにはなっているのだが、あまりに強く勧められてしまうと無碍には断れず、高価でないものならば頂戴することもあるのだという。
 ましてや人当たりがよく、快活なサクラであれば、素直な親切や感謝ばかりでないような差し入れも含まれていそうなものだが。果たしてこのお茶がどうかはわからないが、ありがとうと受け取っておいた。

「止みそうにないね、雨」
「あんまり長居してると今度は強くなってくるかもなー?」

 いくらか世間話をしたあと、窓を打つ雨の音に耳を傾ける。
 止むでもなく、強まるでもなく、手をとって走り出したあのときとさして変わりはないようだった。

「俺の傘、使っていいから。ひどくなるまえに帰りなさい」

 本来、この家へサクラがやってきた目的を思い出し、だからこそ告げただけだというのに。
 その言葉にサクラがむっとした顔をして、鞄を持って立ち上がるまであっという間だった。

「…サクラ?」
「先生のとーへんぼく」

 そう言い放ってサクラが鞄から取り出したのは、折り畳み傘だった。




 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -




(3)




 バタン、と扉が閉まってからだいぶ経って、ようやく思考が働き始めた。


 どうやらそもそも間違えていたらしい。
 意識しないようにと努めていた感情は、すべて空回りだった。
 
 いかにあの頃と同じように悪戯に笑おうとも、あの頃と同じ女の子ではなかった。
 対自分用に使っていたあの技は、かわいい子供のおねだりとしての意味はとうに失っていたのだ。


 担当していた班のひとりが里を抜け、ひとりが修行の旅へ出た頃から、サクラと自分との妙な関係が続いている。
 師弟と言うにはなにかを教えることはなく。毎日のように顔を合わせるでもなく。
 上司と部下と言うにも仕事を共にするでもなく、それらしく振舞うわけでもなく。
 ただときどき顔を合わせては、軽く近況を話したり、時間によっては食事をしたり。
 それだけだった。はじめから、ずっと、変わらずに。
 なんてことはない、親心からくるおせっかいのようなものを焼いてみたくなったり、たわいもない話をしながら漠然とした居心地の良さを感じていたり、またそんな空気が恋しくなって用も無いのに顔を見に行ったり。

 気付いてはいけないと思っていたから、気付かないように注意していた。
 せんせいだから、としうえだから、おとなだから。いろいろな言い訳をして。
 だが、きっとそれもサクラには気付かれていたのかもしれない。
 聡い子だから。

 細く長く息を吐く。なんだか、顔面が異様な熱を発している、ような気がする。
 
 しんとした部屋に雨音だけが響く。しとしと、しとしと。最初からずっと変わらないペースで。
 最初から、ずっと、変わらずに。


 ほとんど無意識に、家を飛び出していた。
 サクラの気配を追いかけて走る。ああやっぱり、図体のでかい男の小走りは、ひどく間抜けだ。
 だから、はやく。


 油断している右手を背後から掴んだ。忍びとしての性で、反射的に投げ飛ばされたらどうしようかと一瞬だけ考えたが、すんなりと捉えられた。おそらくそれは、彼女も待ち構えていたからに違いない。

 全力で走ったわけでもないのに、息が切れているのは、妙な緊張のせい。
 そういえば、夢中で何もかけるべき言葉を考えていなかった。
 自分の言葉を待ち見つめてくる視線に耐えかね、喉が渇く。

「…飯、食いに行く? それとも何か買って帰る?」

 ぷっ、とサクラが噴き出した。それから大きく口を開けて笑い出し、肩を震わせながら小さな折り畳み傘を差し出してきた。
 ふたりで入るには小さすぎるそれは、必然的にふたりの距離を縮める。

「先生、ギリギリよ」
「どっち? アウト?」
「…及第点」

 サクラの左手から小さな折り畳み傘を奪う。捉えたままの右手は、特に離す理由が無い。

「俺がここまで気付かないだろうってはなから思ってたくせに」
「そうかもね? …だとしても、まさか夕飯誘われるとは思わなかった」

 今更ね、ともうひとしきり笑われる。きっとばかにもされているし、呆れられてもいる。でも、諦められていなかったことを嬉しく思ってしまう。つくづく、振り回されっぱなしだ。

「で、どーすんの? 飯、いいの?」
「いいわよ、付き合ってあげても。でも、帰り道までに正解出さなかったら、次は無いわよ」

 頬を染めるでもなく、片眉を吊り上げそう言い放たれる。
 おっそろしー女…とつぶやきながらも、つないだ手をきちんと握りなおせば、遠慮がちに握り返してきたから、反撃とばかりに指を絡めてやる。

 一瞬ぴくりと反応したのを見逃さなかった。横に並んでしまったために顔は見なかったが、きっと必死に虚勢を張っているに違いなかった。
 なんだ、まだかわいいところもあるんじゃないか。でもそれはまだ、言うべきときまで、留めておこう。
 少し雨が強まった気がした。小さな傘と自分の身をサクラに寄せて、近場の食事処はどこか手ごろなところがあったかな、と思いを巡らせる。

 おそらく帰り道では、雨はやんでいる、はずだ。きっと。
(20140518)