息苦しいような湿度を持った、生ぬるい風が吹くようになった。そんなことを感じていたのもつかの間、気がつけばしとしと静かに絹糸のような雨が降り出していた。
 今年もそんな時期かとなんとはなしにため息が漏れる。
 特別雨が嫌いというわけでもなかったが、彩度を失った世界に気持ちは陰鬱とした。










 
『傘がない』





 自分の歩調のせいで跳ね上がる泥に顔をしかめながら歩いていると、カカシ先生が定食屋の軒先でぼうっと立ち尽くしているのを見つけた。
 いつものように両手をポケットに突っ込み、いつも以上にぼうっとしているように見えたのは、気のせいではないようだった。
 案の定傘を持たずに昼食に出かけたところで降られてしまい、ごく弱いものの途切れなく落ちてくる細い雨に諦めがつかず、二の足を踏んでいたのだという。

「今日朝からずっと雨だったじゃない。なのに傘差して来なかったの?」
「んー…、片手塞がるのイヤなんだよねぇ」
 
 先生を招き入れながら、呆れた…と肩をすぼめてみせるも、まったく気にするそぶりもなく足を動かし始めるので、慌てて横に並ぶ。
 さらにはひとの傘の下にお世話になっておきながら、マイペースに愛読書を開きだしたりして!

「いやあ、サクラのおかげで雨の日でも快適に読書ができるよ」
「ちょっと! 先生の身長に合わせると腕が疲れるんですけど!?」

 あまりの傍若無人な態度に声を荒げると、ようやくああそうかスマンスマンと悪びれなく笑いながらイチャパラをポケットに戻し、わたしの右手から傘を取り上げる。
 丸まっていた背筋が伸びて、からだが触れ合わないぎりぎりの距離で、わたしに傘を傾けた。

 そこではじめて、いままでにない距離の近さに、なんとなく心がざわつきはじめる。
 見上げれば、灰色がかったカカシ先生の背景に、わたしの鮮やかなピンクの傘が良く映えた。


 アクションは、ぜんぶわたしからだ。先生は、それを受け入れるだけ。
 呼びかければ抵抗せず傘にも入ってくれる。傘を持ってと言えばすんなり持ってくれる。
 きっとわたしが許さなければ傘を奪うこともしないくせに、わたしが傘を差しやすいよう、イチャパラを読むのを言い訳に背中を丸めてくれるのは、どんな気まぐれなんだろう?





















『雨とピンク』





 どんよりとした重たい空気に包まれる季節。灰色の世界のなかでひときわ鮮やかに映るピンク色の傘を、いつからか目印にするようになった。

 こちらが見かけて「よー」と声をかける日もあれば、「また雨宿りしてるの?」と呆れたようにあちらから近寄ってくるときもある。
 約束などしたことはなくても、会えたらいいなと思うと不思議と会えるのだ。いつも決まった時間に帰るわけでなくても。

 おかげでずっと自宅に置きっぱなしの自分の傘以上に、すっかり自分の傘のように便利に思ってしまっている。
 今日もやっぱりやってきた。遠くに見えるピンク色の傘。
 しかし今日は珍しく、自分が座り込んでいるアカデミーの玄関口には目もくれない様子で、反対の方向へ真っ直ぐ歩いていってしまった。
 あら今日は気付かれなかったか。そんな日もあるかと落ち込むでもなく思ったところで、ピンクの傘の下の人影がひとつでないことに気付いた。


 声をかけようと伸ばしかけた手を引っ込めるのも忘れていた。
 しばし呆然として、ピンクの傘の行方を目で追ってしまった。

(なにあまえてたんだろ)

 その傘の下に自分じゃない誰かがいたことにではない。それを見て少なからず動揺している自分に驚きを隠せなかった。
 わかっていたことじゃないか、たまたまラッキーな偶然が重なり続けただけだ。

 彼女に対する余裕のようなものが積み上げられてできた壁に、小さくヒビが入って、そこからパラパラと小さなかけらが壁伝いに落ちてくるような感覚。
 これ以上大きな破片が落ちてくる前に気がついてよかったじゃないか。いまならまだ繕える。

 自分の勘違いを反省し、ようやく伸ばしかけた手を大きく引っ込めて、その反動のまま立ち上がる。
 久しぶりに濡れて帰ろう。腰掛けていたコンクリートの段差を蹴り出して、あともう少しでアカデミーの敷地を出ようというとき、背後から雨音に紛れて自分を呼ぶ声。

「ちょっとカカシ先生っ、待って…!」
「サクラ…?」

 つい先ほど見送ったと思っていたサクラが、息を切らしてやってきた。

「あれ、相合傘のお相手は?」
「…相合傘? 今日は少し早く終わったから、上忍待機所まで迎えに行ったのに。もういないって言うから慌ててきたら、走り出す先生が見えて…」

 おかげでもっと走らされたわ! 大げさに肩を上下させ呼吸を整えながらサクラがぼやく。
 ふと見上げれば、遠くでピンクの傘が揺れていた。足取りとは別に小さく上下に動く様子に、顔は見えずとも楽しげな雰囲気が伝わってくるようだった。

 自分たちも、こう見えているのか。
 途端に現実を突きつけられた気がした。
 偶然を装って、特別な事なんてひとつもないと見せ付ける小細工が急にあさましく感じ、恥ずかしさを覚える。

 だから、いつもどおり当たり前のように差し出される傘を、今日はすんなりとは受け取れなかった。

「先生?」

 息遣いを正したサクラが不思議そうに見上げてくる。
 きっと本当の偶然は最初のあの日だけで、以降ひとつとして偶然なんてなかった。
 待機所へ迎えに行ったとサクラが言ったように、いつだって雨音を聞きながら待っていてくれたのだ。そして自分も同じように、期待を込めて待ち続けた。だからこそ確証などなくても、往々にして会えるのは当然の成り行きだった。

「今度からビニール傘にしようかな、先生が誰かと間違えないように」

 返事もせず身じろぎもしない自分にしびれを切らしたように、サクラが切り出した。
 相合傘というたったひとつの言葉だけで、どうやらすべて察したらしかった。 

「なにそれ、おれのため?」
「違うの? わたしの隣は、カカシ先生専用でしょ?」
 
 さも当たり前のように言い切られてしまい、先ほどとは違う恥ずかしさにこそばゆくなる。

「…なんていうか、それって…」 
「まだ、いいんじゃない? 雨の季節が終わるまでは」
「言い訳ができるうちはってこと?」
「あーあ、走ったら甘いもの食べたくなってきちゃった!」

 含みを持たせたような言い方の意図をやんわりと追究しようと言葉を選んでいると、ひどくわざとらしいせりふでさえぎられた。
 甘栗甘寄るわよ! すかさず押し付けてきた傘を勢いで受け取ると、そのまま腕をホールドされ、半ば強引に進路変更をさせられる。
 道順なんてわかりきっているのに、店に着くまで絡まった腕が離れることはなかった。



 翌日もまた雨。


 止めるならこのタイミングしかないだろうに、習慣づいてしまったせいかあるいは他の理由からか、なんとなくまたアカデミーの玄関口に座り込んでしまう。
 するとやはり予想通り、"偶然"こちらに気づいてやってくるのだ。

「カカシ先生!」

 どんよりとした重たい空気をはねのけるように透る高い声。いつもより弾んで聞こえたのは、まだ気のせいということにしておいて。

 灰色の世界のなかで、ビニール傘の下でもひときわ鮮やかに映るピンクの髪。
 今日からはそれが、新しい目印になった。





















『傘がない 2』





 はじめから完全な偶然じゃなかったりして!



「カカシ先生!」

 思ったより声が大きくなってしまって、慌てて口を押さえたものの当然意味なんてなくて、だけれど当の本人は少し驚きつつも「やー」と気合の入らない挨拶で応えてくれたからほっとした。

 だって少しは期待していたけど、まさか本当に"偶然"会えるだなんて!
 
 アカデミーから程近い、かなり風情を感じさせる定食屋の軒先に、カカシ先生は立ち尽くしていた。
 小走りに駆け寄りこんにちはと返す。傘を広げたまま先生と向かい合った。
 お昼ごはんですか? まあね、サクラは? 師匠のおつかいで、下処理をしてもらっていた薬草を取りに行った帰りなんです。へえそうなの、でもまた雨で湿気ちゃいそうだね。そんなとりとめもない話をテンポよく重ねていると、先生の背後で引き戸がガラガラを音を立てた。ありがとうございましたーと言う店主の低い声が、戸の締まる音にかき消される。食事を終えた男性客を軒下の端に避けて見送ったところで、そういえばと再び先生に視線を戻した。

「カカシ先生がよく来るって、前にここのおかみさんに聞いたんですけど…本当だったのね」
「へえ、サクラも随分と渋いランチタイム決めこむもんだね」
「だって安くて美味しいんだもの。小鉢もたくさんあって、栄養のバランスも取れるし」

 店構えや少しいかつい店主の風貌のせいか、客層は明らかに偏っていた。少なくとも、自分のような若い女の子など他に見たことがない。
 最初は単に近いからと適当にのれんをくぐった。味はもちろんよかったが、古ぼけた雰囲気に自分がひどく浮いている気がして、二度目はないかしらと租借しながらぼんやり考えていた。
 お冷やのおかわりをもらっているとき、世間話のついでのような一言がなぜだか印象に残って、それからなんとなく通うようになり、アカデミーへ向かうときにはわざわざ店の前を通るのがくせになった。


(なんでこんなにこだわってるんだろう?)

 あるときふと考え込んだ。
 そもそもどうして会えないわけでもない人に会いたいなんて思うようになったのか。

 もちろん互いに任務もあるから、毎日顔を合わせるのは無理だとしても、何か理由があれば会いに行くことはできた。 
 不意をつかれる遭遇も何度も。火影執務室の前の廊下ですれ違ったり、商店街で買い物中の先生を見かけたこともあった。

 それでもあくまで狙って"偶然"顔を合わせることにこだわっていた。


 理由があって会いたいわけではなかった。
 不意をつかれるのは、こちらが油断してしまっているから困るのだ。

 答えは、とてつもなく単純だった。


「アカデミーまで? 入れてってあげる」

 不自然さなんてなにもない、当然の提案だ。
 にこりと笑って、じゃあお邪魔しちゃおうかなと軒先から隣にやってきた先生も、きっと期待していたに違いない一言。
 濡れないようにと薬草を入れたかばんを抱えなおす手に、なんとなく力が入ってしまう。

 そう、わたしは、傘を持たない雨宿り中の顔見知りを助けてあげただけだ。
 たとえその顔見知りに対して、言葉にするのもこそばゆいような下心を持っていたとしても!





漫ろ(そぞろ)雨…小降りだが、いつまでもやまずに降る雨。(デジタル大辞泉)
(20150607/#夢のカカサクエアオンリー提出用)