カカシせんせーっ。

 昔から変わらないリズムで名前を呼ぶ。そんなことしなくても気配で気付くだろうに、近頃は振り返らない回数が増えた。
 あーあ、と大げさにため息をついて、のろのろとアカデミーの廊下をそのひとめがけて足を動かす。六代目火影は、火影執務室手前の窓辺に立ち尽くし、真剣な表情で外を見下ろしていた。

「カカシ先生ってば!」

 それでいて、持っていた書類を背中めがけて振り下ろしてみれば、すかさずその身を交わしてくるのだから、決してすべての意識がきちんと働いていないわけではないようだ。

「こら、書類を乱暴に扱わない」

 振り返りざま、逆に頭を小突かれてしまった。
 出会ったころは高く果てしない壁のように思えていた元担当上忍だったが、いつしか肩を並べるまでになっていた。あくまで背丈だけの話だったが。

「じゃあ呼んだら返事しろっての」
「理由になってない」

 ぴしゃりと言い放つ冷静な横顔にちぇーと頬を掻く。たとえ身長は並んでも、自分とこの先生との関係はこの先もずっと変わらないのだろう。
 彼の言うことは大体正しい。少なくとも自分にとっては、信頼に足る道案内の看板だった。

 しかしそんな道しるべも、最近どうやら思い悩むことがあるらしい。

「最近、なかなか部屋に入ってこないって、シズネのねーちゃんがこぼしてたぞ」

 窓のサッシに置かれていた指先に僅かに力が入り、白く色が変わったのを見逃さなかった。
 何かを探すように、いつもこの窓から外を眺めている。彼の身近な人間は、いつからか彼のそんな様子をたびたび目撃するようになった。
 
 そしてオレは、その理由を知る数少ない人間だった。
 
「毎日毎日、ここから見えるのを待ってるくらいなら、行って確かめればいいじゃねーかよ」
「…そーもいかないのよ」

 いろいろあるのよ。大人ぶった顔でそうこぼしているが、実際はとても単純な話で、まわりくどく面倒な問題に仕立て上げているだけなのだ、彼が勝手に。
 くるりと窓に背を向けてみせたものの、探しているその気配を遠くでも感じようものなら、すぐ振り返るだけの意識は残したままに違いなかった。

 具体的に何が起こったのかは話してもらえないから知らない。きっと詰め寄ったところで教えてはもらえないだろう。
 元々多くを交わさずとも妙にわかりあっていたふたりだ。それでも微妙な変化に気付けたのは、自分もふたりと多くの時間を共に過ごした仲間だから。穏やかな時間も、死の淵を彷徨うようなときも。
 
 いつからかサクラちゃんが先生に向けるまなざしが変わった。
 先生のいないときに、先生の話をする回数が増えた。
 先生に名前を呼ばれたとき、ほんの一瞬だけ緊張したように目を見開くようになった。
 口ぶりはいつもと変わらないおせっかいのようでいて、荒いばかりの声色に時折あたたかさを感じるようになった。

 サクラちゃんはカカシ先生のことを好きなんだ。
 たくさんの小さな変化が積み重ねられて、ようやく気がついた。
 
 でもしばらくして、カカシ先生を見つめては花が綻ぶようにゆるやかにやわらかく微笑んでいたサクラちゃんの表情が、かたく冷たくなっていった。
 そんなふたりの間に流れる空気がすっかり変わってしまったことに、色恋に疎い自分にさえわかってしまったのだ。聞かずとも、何かあったであろうことは明らかで。

「あいつはちゃんと、元気でやってるか?」
「どーせ先生が自分で突き放したんだろ? いまさら何言ってるってばよ」

 はは、と力なく笑うのがひどく痛々しい。

 彼はどうだったのだろう。先生は、サクラちゃんのことを。
 いつでも自分たちの道しるべとなりときには盾となってそばにいてくれたが、それはあくまで先生であったり、上に立つものが部下たちを導く役割としての行動に留まっていたようにも思う。
 どれほど心の距離を縮めても、こと彼に対しては、どこか踏み越えきれない壁を感じていたのも事実だ。

 一方でひとの感情の変化にはとても敏感だった。だとすればサクラちゃんの気持ちに気がついて、気がついたからこそ、背中を向けてしまったのではないだろうか。


「守りたいもの全部守ろうなんて…、おれには過ぎた夢だったのかもしれない」

 仲間も、里も。
 守りたいものすべてを守りきろうとするあまり、本当に繋ぎとめておきたかったものを手離してしまったのではないか?

 いまや自分たちの先生どころか、長として里じゅうの道しるべとなった彼の、ずいぶんと心もとない言葉。
 何もない手のひらを開いてじっと見つめては、ぎゅうと空を掴む。
 
 握り締めた指のあいだから零れ落ちていくような感覚は、痛いほど良くわかった。
 何度となく味わった無力感。

「でもよ、守るものがあるうちは、自分の体が動かなくなっても、手を伸ばさなきゃなんねーときもあるだろ」

 それは先生だって、いや先生こそ強く感じているはずのことなのに。
 驚いたように目を見開いたと思ったら、零される力ない声。

「…なんで、おれだったんだろうなぁ」
「それ、オレに言っちゃうわけ?」

 ひでーよ先生。おどけて睨んでみても、今度は先生は決して笑わなかった。

「よりによってだろ。おれなんて」
「…あのさぁ。サクラちゃんは誰と一緒なら幸せだなんて、他人が決めることじゃねーってば。サクラちゃんは先生がどんな人間かなんてよくわかってるし、こんなウダウダだらしねー先生だってわかってても、先生じゃなきゃダメってんなら、それは」

 空を掴んでいた先生の手に、また力がこめられていた。
 どれほど白くなるまで強く握り締めても、すべてを守りきるだなんて無理な話なのかもしれなかった。
 それでもその手が伸ばされるのを待っている人がいるのなら。

 いくら欲しがっても、オレはその舞台に立たせてもらうことさえできなかったというのに、贅沢な話だ。
 手を伸ばせば、掴んで握り締めてくれる人がいるのに、どうして。
 どうしてかたく手を結んだまま、ひとり立ち止まっているのか。

(オレってばいいヤツ…)

 はぁと大げさに息を吐いて、顔を上げようとしない先生に真正面から向かい合う。
 登れなかった舞台の結末でも、そこにまだ彼女が立っているのなら、知らんぷりなどできない。

「なあ先生。先生は後悔してきたことも多いかもしんねーけど、少なくともオレたちは、先生の手にいつだって助けられてきてんだからよ」

 そうやって、いつまでも空を掴んでいる場合ではない。その手は。
 その手でなければならないのだ、彼女には。

「先生がどんな結果を選ぶかはオレの口出すことじゃねーけどよ。けど、はっきり終わらせないで逃げるなんて、卑怯だ。終わってもないことを忘れて次…なんて、できるわけねーだろ」

 先生の心の結着だなんて、この際どうでもいい。すべては彼女のために。
 どんな答えであれ、きっちりと正面から告げなければ。
 それこそ硬い殻のなかに閉じこもってしまった彼女からやわらかな笑顔を取り戻す、唯一の方法のはずだ。
 そしてそれは先生も何より望んでいることに違いないのだから。



inspired by テテ/近藤晃央
http://www.uta-net.com/movie/137463/
(20150606/#夢のカカサクエアオンリー提出用)