突発的な案件がいくつか舞い込んできて、日中はかなり立てこんでいた。おかげで後回しにしてしまったいくつかの仕事に、定刻を過ぎてからようやく手を付け始め、あっという間に時が過ぎる。
 何度か諦めて帰るチャンスはあったものの、あと少し、あとこれだけ、を繰り返しているうち、気が付けば外はとっぷりと暮れるどころか、里が眠りだすような夜半になってしまっていた。
 医療部として新しい研究を始めることになり、こんな日がここのところ何日も続いていた。疲れはないといったらうそになるが、新しいことをはじめる期待や楽しさが勝っていて、苦ではなかった。むしろ懸念すべき問題から目を逸らすことができてありがたいとさえ思う。
 
 しかし充実した気持ちはたちまち萎れていく。
 集中力が途切れたと同時に、気配があることに気が付いた。反射的に背筋が伸び、唇をきゅっと結ぶ。
 とてもよく知ったその気配の主は。
 
「身体壊すぞ」
「…こんな時間まで仕事熱心ですね、六代目」

 こちらが気が付くまで待っていたのだろうか。いつから?
 恭しさを装い嫌味を返せば、戸口にもたれるように立っていたその人が、細く息を吐くのを感じた。

「ちゃんと休んでいるのか」
「火影ともなると大変ですね、わたしみたいな末端の人間にまで気を遣われて」

 少し言い過ぎたかしら。きっと怒っているだろうな。でもここでその表情を盗み見てしまえば、この強がりが台無しになってしまう。
 わたしはよく知っていた。
 わたしが彼を里長として扱うと、六代目火影そのひとは、少し寂しげだったり、ときには不機嫌そうな表情を浮かべていることを。

「違うよ、サクラだからだ」

 反感を買うような口ぶりになるよう意識して努めたのに、対して包み込むようなやわらかな声色で優しい言葉を囁かれる。
 彼がわたしの名を呼ぶだけで、こんな短く言葉を交わすだけで、あっという間に以前のわたしに引き戻されそうになってしまう。彼に甘え、守られ、頼りきりだった弱いわたしに。必死に堪え、また甘えたくなる気持ちを反抗心に変えて。
 わたしの好意を拒んでおいて、いまさら。

「…先生、いつまで第七班の担当上忍のつもりなの、里の長にまでなっておいて」
「しょうがないだろ、お前たちは最初で最後のかわいい教え子なんだし」

 いつまでだって先生でいさせてくれよ。おどけて笑いながら、戸口からゆっくりとこちらへ近づいてくるその表情は、昔から変わらない、のんびりとした笑顔。
 その立場を離れてもなお、先生の距離でいたがっている。

(ずるいひと)

 いつになっても、男として見ることを許してくれない。




 大きな争いが終結したそのあと、身近な先生が里の長となるのだと聞かされた。
 遠く手の届かない存在になってしまうまえに、どうにかして自分の胸に静かに高まり続けていた想いを伝えたかった。
 今にして思えば、それはひとりよがりに過ぎなかったのだけれど。

 好かれている自信はあった。もちろんただひとり愛情を傾ける対象であるだなんて傲慢なことは思ってもいなくて、それでも彼の言う、最初で最後のかわいい教え子という立場から、ある意味では特別に気にかけてもらえている自負はあった。
 だからどこかで、驕りがあったのだと思う。

 子どものころから向け続けていた信頼の眼差しにわずかな熱を含ませてみた。しかしたったそれだけで、いつでも手の届く距離にいてくれた彼は、あっさりとわたしの心だけを突き放した。
 表面上の距離はなにも変わらなかったのに、わたしにははっきりとわかってしまった。優しい言葉の裏で、少しずつ拒絶の色を強めていくのを。
 これ以上はだめだ、踏み込んではいけない。はっきりそう言わなくても、ずっと彼のそばにいたわたしには、言葉より明らかだった。
 想いを告げるどころか、隣に並ぶことさえ、許してはもらえなかった。

 弱くでも確かに熱を放っていた小さな火種も、長い年月を経てじんわりとつま先まで暖めるほどまでに育ったのに。
 この炎をいまさら、どうしたらいいのだろう。

「おまえは昔から、がんばりすぎるところがあったからな」
「…無茶したこともありましたが、いまはきちんと自分の力量を把握しているので、大丈夫です」
「…そうかもしれないな、」

 恋い慕う気持ちを拒まれたわたしに残された手段は、こちらからも拒むことだけ。
 だからひたすらに、毅然とした態度を貫く。

 以前と同じ距離を保とうとする彼は、変わらず先生然としてその距離を詰めてくる。
 その居心地の良さは知っていたし、受け入れてしまえばそばにいることだけは許されるとわかっていたけれど、一度認めた気持ちをなかった事にするのは不可能だ。
 現に今だって、弱々しく溶けた語尾にこんなにも胸がざわついている。傷つけてしまったかしら。突き放すつもりでいたはずなのに。

「でも、もう、切り上げます。火影様がわたしのせいでお休みになれないのなら申し訳ないので」

 机上に広げていた資料をすべてまとめて積み重ねた。本当は明日のために、今日までの成果を書き記して付箋でも貼り付けておきたいところだったけれど、この重たい空気から1秒でも早く抜け出したかった。

「サクラ」

 何か言いたげなのはわかった。
 でもこの態度を責められるのがこわくて、言い放ったのは別れの挨拶。

「おやすみなさい」
「…おやすみ、また明日」

 ロッカーの扉を乱雑に開けていた手がぴたりと止まる。
 また、だなんて。なんて残酷な響き。
 そんな希望のない言葉はいらない。優しくなんてしないでくれたらいいのに。
 たっぷりとわたしを傷つけて、どこかで期待するこをとやめられないでいる愚かなわたしにわからせてよ。

 かばんを取り出すと顔も上げずに、こちらを見つめたままの彼の横をすり抜けて研究室を出た。




 遠くかすかに気配を感じるだけで、無意識のうちにからだじゅうをかたく強張らせるのが、いつのまにかくせになってしまっていた。
 あのときに負った傷はあっさりと治ったように感じていたのに、静かに深く傷いていたのだと思い知らされる。
 ずきりと音を立てる胸を強く押さえてやり過ごしながら、どうかはじめからなかったことにしたいと願うのに、この痛みの忘れ方さえわからない。
 

 わたしの、わたしたちの先生は、いつのまにか里じゅうの希望になっていた。
 ちっぽけな子どもたちを背負っていた大きな背中は、もっともっと重くたくさんの大切なものたちを背負い込んでいた。

 その重荷を分かち合うだなんて、そんな大それたことをしたいわけじゃない。ひとりの忍びとしての自分は、彼の手駒のうちのひとつでしかない。
 それでも彼を、わずかにでも支えたいと思うこの気持ちは、そう簡単に諦めの付くような幼い恋ではなかった。
 たとえ彼の優しさが、わたしを哀しみで覆い尽くしても。


 建物を出た瞬間、水分を蓄えた生ぬるい風が肌にまとわりついてくる。
 漏れ出るため息も闇に溶ける、月明かりも照らさない夜。
 分厚い雲が希望のひかりを遮るように、わたしと彼との間にも、いつしかこんなにも。


inspired by 見えない月/藤田麻衣子
http://www.uta-net.com/movie/101255/
(20150606/#夢のカカサクエアオンリー提出用)