サクラが職務中に、倒れた。
 任務報告書を渡すなり、綱手からそう告げられて、カカシは血の気が引くのを覚えた。

 その後、どのようなやりとりをしたのかは覚えていない。
 下がっていい、と二度言われて、ようやく部屋を後にした。


「…言わなくていいんですか、風邪で自宅待機してるだけだって」
「あいつがあんなに動揺しているのがおかしくて」

 普通に考えれば、サクラにそれほどのことがあったのならば、綱手やシズネがこんなところで安穏としているはずはないのだ。
 だが、そんなことも考えられないほどに、動揺していた。あの、カカシが。

「でも…あれって、単純に元担当としての行動ですかね?」

 おそるおそる尋ねてくるシズネに、綱手は困ったように笑うことしかできなかった。

「さー…、知るのが怖いから考えないよ、あたしは」






 自活をはじめたばかりのサクラの自宅。
 ついつい足を向けてしまったものの、チャイムを鳴らして呼び起こすのも気が引けて、なんとなくアパート近くの木に登り、窓をのぞく。

(女の子の部屋覗き見るとか…変態か)

 あまりにも情けない行動に己の事ながら肩を落とす。
 綱手の様子から、きっとたいしたことはないのであろう。
 だが、「倒れた」という言葉に過敏に反応し、冷静さを欠いた。

 これがナルトやサスケなら、心配こそすれ動揺などしなかったはずだ。
 女の子だし。ひとりぐらしはじめたばかりだし。唯一里に残ってる教え子だし。
 浮かんでくるのは、あまりにも頼りない言い訳ばかり。

 はぁ、とため息をついたところで、視線を向けていたガラガラと窓が開いた。

「…サクラ」
「なーにやってるの、先生。通報するわよ」

 こちらを睨み付ける顔色は、やはり悪かった。




「…だって、仕事中に倒れたなんて聞かされたから…、」
「もう、だからって覗きはないでしょー覗きは!」

 サクラは覗かれるよりもまし!と窓から迎え入れてはくれたものの、やはり怒っていた。
 窓を見つめてはいたものの、実際には部屋の中は覗けない死角にいたはずだ。それでも気付かれたのは、気配を感じたからだという。

「仮にも上忍ってひとが、気配晒して覗きなんて、」

 言いかけて、身体がふらつく。
 倒れる、と思うより先に、カカシの腕がサクラを支える。

「…ごめんなさい」
「ほら、無理するな」

 させてるのは誰だ、と反論したいのを堪え、サクラがおとなしくベッドに身体を預けた。
 朝用意した氷嚢は、すっかりと融けてしまった。

「すごい熱だな」
「ちょっと、がんばりすぎたみたい…。綱手様にもちゃんと休めって怒られちゃった…」

 サクラの額に手を合わせると、想像よりもずっと熱を持っていた。
 ちょっと、というが、おそらく少しの変調に目をつぶり続けた結果だろう。
 良くも悪くも、一生懸命すぎるのだ。

「…先生の手、冷たくて気持ちいい…」
「ん、しばらくこうしてる? それとも、氷作ってくる?」

 熱のせいか、少し気弱になった翡翠の瞳が、とろんとこちらを向いている。
 少しだけ、妙な気分になる。
 だが、顔を近づけたのは、小声でも聞き取れるように。他意はない。

 じい、と見つめてくる視線に耐えかね、枕元の氷嚢を取り上げ、台所へ。
 離れた掌に、名残惜しげな視線を向けられているとも知らずに。
 
「勝手にやるよー」

 了承を得るためというより有無を言わせないために一言告げてから、冷蔵庫の扉を開ける。
 氷は、あとわずかだ。いまできているものを袋に入れ、新たにトレイに水を張る。

 ふと、がらんとした庫内に目が行く。 
 
「ちゃんと食ったか?」
「食欲ない…、」
「だめだぞー、ちゃんと腹に入れないと。おかゆなら食えるか? それかなんか果物とか」

 うん、とつぶやいたが聞こえてないかもしれない。一応頷いては見せたのだが、カカシがこちらを見ているかもわからない。

(おかゆって、作ってくれるのかしら。先生が)

 これが平常時だったら、目を見開いて大げさに驚いて見せるところだ。
 だがいまは、カカシの優しさが、じいんと身に染み渡る。

(…嬉しい)

 ひとりぐらしを初めて、はじめて本格的に体調を崩した。
 身を起こすのも億劫だったのに、外からカカシの気配に気付いたとき、それでも身を起こした。
 やはり心細かったのか。優しくされて、はじめて気付いた。

 すん、と鼻をすする。なんだか目じりに涙が溜まりそうになっていると、氷嚢を額に載せられた。

「ちょっと眠ってろ。米つけとく間、果物買ってくる」

 不思議だ。
 お米の場所とか、果物はいらないとか、色々伝えたいと思ったのに。
 ぽん、と頭に手を置かれた瞬間、サクラの意識が途切れてしまった。



 うっすらと意識が覚醒したのは、ことこという鍋の音。
 こういうの、普通、男性の視点なんだろうに。
 目覚めるとエプロン姿の美女が、台所に立っていて…みたいな。

 どれくらいの時間眠っていたのかはわからないが、それでも幾分かましになった気がする。
 おそらく眠れたということより、安堵感によるものが大きい気がする。
 とにかく不安だったのだ。ひとりで、心細くて。
 誰かがそばにいてくれるというだけで、これほどまでにほっとするものなのか。
 
「起きたー?」

 もぞもぞする気配に気付いたのか、カカシが戸口から顔を出す。
 うん、と口を開いたが、起き抜けで思ったように声が出なかった。

 そんなサクラの葛藤に気付いたかどうかはわからないが、お盆を両手に持ち、カカシがやってきた。

「…ほんとうに、作ってくれた、の…?」
「んー、かわいい部下が苦しんでるんだもの、当然でしょ」

 部下、といわれて、なぜだか違和感を覚えた。
 言ってみれば、現在は直属の部下ではない。でも、これはそういう違和感ではない。

 まだだるさの残る身体を手をついて起こしていると、すかさずカカシの腕が支えに入る。
 ふう、と息をつく間に、膝の上には湯気の立ち上るお盆を載せられる。おかゆをよそられた茶碗と、皮をむいた四つ割のりんごまで添えられて。

 不思議な気持ちがした。
 なにかが、うまく言葉にはできない感情が、くすぶっているのを感じる。 

「ちょっと熱いかも」
「…先生、」

 言いかけて、急に、くつくつとこみ上げてきた。
 肩を震わせる。ああ、だめだ、こらえられない。

「サクラ?」

 不思議そうにたずねてくるそれが引き金になった。
 あははははは!と、けたたましい笑い声。さきほどまでへろへろに弱っていた病人の。

「も、信じらんな…」
「…えー、」
「あ、のね、なんていうか…、ごめんなさい。本当に、なんて言えばいいかわからないんだけど…」

 考えはじめると、おかしくてたまらなくなってしまって。
 でも状況をわからないカカシからすれば、おそらくひどく不愉快だ。
 わざわざ家まで様子を見に来てくれて、おかゆまで作ってくれた好意を、笑っているようにとられかねない。

「先生! …あのね、ありがとう」
「…うん、どーいたしまして。何でこんなに笑われてるかわからないんだけど」

 明らかに不服そうに、早く食べなさいよーとおかゆを促される。
 湯気の様子から、本当に熱そうだ。レンゲに少しすくって、ふうふうと息を吹きかける。
 やけどをしないように、唇をすぼめながら少し口に含むと、喉越しのいいおかゆ。
 
「信じられない、おかゆっておいしいんだ」
「えー、うそでしょ。おかゆにうまいもなにも」

 違う、そうじゃない。
 確かにふつうのおかゆに、飛びぬけてうまいもなにもない。
 のだが、それでもサクラにとっては、胸がいっぱいになるような、特別なおかゆだった。

 それでも少し不機嫌な様子のカカシは、きっとサクラが自分をおだてているんだと勘違いをしている。

「ねえ先生。わたしね、寝込んでて心細かったから、誰かがそばにいてくれて嬉しいんだと思ってたの」
「…まあ、気弱になってるときに手助けしてもらえたら、嬉しい気持ちはあるよね?」
「違うのよ。んー、違わないんだけど…」

 本当に、なんといえばいいのか。なんと言えば、伝わるのか。
 また、笑いがこみ上げてきそうだ。

「そばにいてほしいときに、来てくれたのがカカシ先生で、しかも先生がわたしのためにおかゆまで作ってくれて、だからものすごく、嬉しいんだと思う」

 気配を消すのも忘れて必死になって様子を伺おうとして。
 たとえ本当にかわいい部下が心配なだけだったとしても。

 おかゆが飛びぬけておいしい、というよりも、カカシがサクラのためにここまでしてくれた、ということがたまらなくて。

 これからもずっと、こうしてそばで見守ってくれる人が、カカシであってほしいと、急に気がついた。
 それは部下としてではなく。そのほかの部下と同じようにではなく。ただひとり、自分のためだけに。
 なんという身勝手な願望だろう。それでも気付いてしまったら、振って沸いたこの感情を、サクラはこらえきれなくなった。

「先生、結婚しよ? 一生そばにいて」

 あまりに予期できない展開に。
 これまで見たことがないくらい目を見開いて、あごが外れそうになるほど口を開いたまま、しばらくカカシは二の句が告げなかった。

 そしてそんなカカシを見て、サクラはまた震えるほどの大笑いをした。
(20140109)

風邪ハイってやつじゃないですか…?