「あーもーやってらんないわよー!」

 ダンッ!と飲み干したジョッキをサクラが乱暴にテーブルに置くので、物に当たるのはやめなさいよ、と小さく諫める。
 顔を合わせるなり付き合って!と半ば拉致に近い状態でチェーンの居酒屋に連れ込まれ、説明されるでもなく、安酒をあおり、だらだらと愚痴を聞かされ続け、いい加減うんざりしていた。

「こう見えて俺も忙しいんだよね、話したくないならしょうがないけど、終わりが見えないなら帰るよ?」

 ジョッキを置いたままテーブルに突っ伏してしまった桃色の頭をつつく。本気だよ、と含ませて。酔っ払っているわけではない。ひどい飲み方だが、この程度でつぶれる彼女ではない。
 すると、慌てて上げられた顔は、目尻がほんの少し滲んでいた。

「だめよ、先生のことずっと待ってたのに」

 結局つくづくこの子には甘い、とは、自覚しているものの、つい先ほどまで管を巻いていた表情から一変して、こんな心細そうな表情を見せられては、たった今帰ろうと決意した心さえあっさりと変わってしまう。

「誰でもいいのかと思ってた」

 あんな乱暴な誘われ方だったし。最初に見かけたのがたまたま自分で。ていよくうんうんと肯いてくれそうだし?自分で言うのもなんだが。
 自嘲気味に漏らせば、ちがう!とオーバーに頭を左右に振ったあと、サクラが静かに口を開く。

「…だって先生、もし話があるから待ってた、なんて言ったら、心配してくれちゃうでしょ」
「そりゃ心配するでしょ、サクラのことだもの」

 普段どれほど追い込まれていても弱音を吐こうとしない彼女だからこそ。
 頼ってくれるのは純粋に嬉しかったし、助けられるものなら助けてやりたい、とも思う。

「だから、先生にだけは言いたくなかったけど、でも、受け止めてもらえるなら先生がいいな、って、思っちゃったの」
「…難儀だね」
「そうよ、それでいてずるいの、わたしは」

 通りがかった店員にお冷を頼んだあと、ふうとたっぷりと息をつく。
 空のジョッキを見つめた表情は空ろで、おそらく自分が思うより重たい状況なのだろうと察したが、サクラから告げられたのは、その想像をもはるかに越えるものだった。

「結婚しろって」
「…誰が?」
「わたしが」
「…誰と?」
「他里の医療忍者」

 お待たせしました、と店員がグラスを置く音でようやく空気が動き出す。
 え、誰が?と戸惑うあまりに同じ質問を繰り返してしまい、睨まれた。

「…まあ、サクラもお年頃だし、縁談話なんてなくはない話なんじゃ…、ていうかいやなら断ればいいじゃないの」
「そうね。ただの縁談話ならね」

 なくはない、などと言いながら思いっきり動揺していたのは自分。
 反してサクラはしっかりと落ち着き払い、任務中、作戦について話し合うときのようにつつがない口調で。つつがなすぎる、口調で。

「要はね、出向して木の葉との友好関係を磐石にしろってことよ。互いの医術の研究にもなるし。向こうとしても、スキルの向上につながるなら言うこと無いだろうし」
「いや、だからって、どうしておまえが」
「…先生、わたしね。そこそこやってきたの。人間としてはこれからかもしれないけど、忍びとしては少しずつだけど経験も積んできたし、そこそこの立場になってきたっていう自覚もある。後輩もたくさんできた。だから、ある意味、当然の人選なんだと思う」

 いつもはしっかりと人の目を見て話すサクラが、まるで視線を上げようとしない。
 当然だと思うのなら、どうしてなのか。まばたきのたびに揺れる睫が濡れていくのは。

「それにね、わたしが断ったら下の子が…、って思うと」
「じゃあサクラはいいんだ。みんなのために、自分を諦めるんだ?」
「…」

 ぐ、と唇を噛み押し黙るのを見て、ほんとうにずるいな、と思う。
 どうすればいいかなんてわかっているくせに、わざわざ答えあわせにやってきて。
 先生であるという、それだけの理由で、自分を頼ってやってきた。
 こんな回りくどいことをしなくても、いつだって背中を押してやるのに。

「今回それでおまえが諦めたところで、また別の里とこうなったら?結局また別の誰かが諦めるしかなくなる。同じことの繰り返しだ」

 だからこそ、彼女が求めているであろう正解を、丁寧に説いてやるのだ。それが、先生としての役目。
 
(しかしまあ…、サスケサスケって騒いでた女の子が、里のために自分を犠牲にしようと考える日が来るだなんて、)

 成長したといえば聞こえはいいが、どこか腹が立つ。

「俺個人としては…、そんなくだらない理由で身売りみたいなマネしなきゃならないほど、おまえの価値は低くない、と思うけどね」

 頑なに伏せていた目をようやくこちらへ向けたと思ったら、随分と見開いて見つめてくるものだから思わずどきりとする。
 価値、だなんて。モノのような言い回しをしてしまったことを後悔していたところだったこともあって。
 しかし、その翡翠の瞳を瞬かせたあと、ほんとうに?とつぶやく声からは非難の色は見えなかったので、情けなくもほっとしてしまう。

「むしろ、向こうが頭下げてお願いしに来るくらいで丁度いいだろ」

 それでも丁重にお断りはするけれど。
 これは間違いなく本音だったが、サクラは大げさに思ったのか、頬を緩める。

「…ありがとう、カカシ先生」
「いいえー」
「それと、ごめんなさい。立ち向かう勇気が欲しくて、先生に甘えちゃったの。まさか、ここまで嬉しいこと言ってもらえるとは思わなかったけど!」

 こちらこそ、自分の言葉でこんなきれいな笑顔が見られるのなら、本望だ。
 思えば、今日顔を合わせてからはじめて見る、笑顔だった。

「明日、綱手様に相談してみるわ。元々反対してくれてたし」
「なんだ、それなら話は早そうだね」

 大名連中の政治的判断に巻き込まれてしまっただけで、里の長でありいちくのいちとしての綱手としては、はなから受け入れるつもりなどなかったのだという。

 そこで違和感を覚えた。
 そんな強力なバックがついているなら、最初から悩むことなどなかったろうに。
 責任感の強い彼女のことだからわからなくもないが、わざわざこんなに回りくどい答えあわせを自分に求める必要など、なかったのではないか。

 もやもやとしたものを感じていると、でもね、とサクラがつぶやく。

「先生がわたしをさらって逃げてくれないかなぁって、ちょっと期待しちゃった」

 ばかみたいだけどね。そう言ってさっきよりおどけて笑っていたのに、泣きそうに見えたのは気のせいだったろうか。
 あれほど理路整然たる弁明をしておきながら、今更酔ったふりをするいじらしさに、気持ちが揺れる。

 ばかなのは自分だ。聡いサクラが、こんな単純な答えに悩んだりするはずはないのに。
 本当の正解にようやく気付かされる。
 もしかしたら自分もそれをずっと望んでいたかもしれない。
 あるいは、この場の勢いかもしれない。
 結婚と聞いたときの動揺は、果たして。

 僅かな逡巡のあと、結局先生たる自分は、それを許さなかった。
 最後の理性で、諭す。自分に言い聞かせるように。

「ばかだな、おまえには幸せな結婚が似合うよ。誰からも祝福されず、一生逃げ続ける人生なんて、歩んで欲しくない」
「いいわよ、別に。カカシ先生といっしょなら」

 ずるいね、サクラは。
 踏み出す勇気のないだらしない男に、そんな夢みたいな言葉を、いとも簡単に。
(20140808)