タガがはずれた、といってしまえば、それまでだった。

 あれほどうだうだと悩んでいたのに、気付いたときには腕の中にかき抱いていた。

「…先生、」
「ん」

 困っているのが、わかる。顔など見なくても。
 わかったから、続きを言わせないように、ぎゅううと強く抱きしめた。細い身体は、折れてしまいそうだ。

「…なんか、ちょっと、たまんなくなっちゃって」

 好きだとか、かわいいとか、そういうものはちょっと、わからない。
 ただ、ただ、真っ赤にして震えた表情が、いとおしくて。
 ただ、それだけだった。

 それだけに、この行動は本当に衝動的で、だからこそ一呼吸置いて、少し冷静な思考を取り戻して、血の気が引いた。

(あーあ…)

 やっちまった…。
 進んでしまえば、戻ることはたやすくない。
 なかったことに!なんて口で言うのは簡単だが、意識しないことなど不可能だ。

 自分はともかく、サクラは。

 突き放すでもない、抱き返すでもない。
 たぶん、ただ、ただ、困っている。

「ごめんね」
「…謝るなら、しないで」

 こういうとき、女の子もほうがよっぽど肝が据わっている、と思う。
 カカシの胸のなかにくぐもった声は、それでも想像以上にしっかりとしていた。

「いや、じゃ、ない?」
「…嫌じゃ、ない」

 本当に嫌ならば、たとえカカシがどれほど強く抱きしめたところで、突き放すのはたやすい。
 上司だから従うとか、そういった関係でもない。嫌ならはっきり嫌と伝えてくれる、はず。
 共寝を断られたときのように。
 
「先生、わたしと寝たいの?」

 この場合の寝たいの意味を考える。
 …いつかは?
 いや、まだ正直なところ、はっきりとはわからない。
 
 感情もなく抱き合うのは難しくはないけれど、相手がサクラであればそれは別だ。
 大切な仲間。大切だからこそ、そこから踏み出すのは、容易くない。

 答えあぐねていると、沈黙を破ったのはサクラのほうだった。

「…わたし、実は今朝まで、カカシ先生にこうされたいって思ってたの。本当に」

 本当の話で。寂しい夜に、そばにいてほしいと思った相手は、紛れもなく今抱きしめられているこの相手。

「でも、なんていうか…、いざ、直面すると…頭が真っ白になるって言うか…、」

 利発で口の達者なサクラが、言いよどんでいる。珍しいことだ。
 無理もないだろう。たとえ本当に好意を抱いてくれていたとしても、あくまで先生としてのカカシしか知らないでいたサクラが。

「急に男の顔見せられて、こわくなった?」
「こわくは…ううん、ちょっぴり、こわいかもしれない」

 好きだと思っていたのは、先生としてのカカシだったのか。それとも。
 そもそもきちんとした恋愛経験もあるとはいえないサクラに、それを判断するのは容易ではない。

「でも…安心する」
「急にこんなことされてるのに?」
「うん…。誰かに、カカシ先生に、必要にされてるんだ、って思うと…うれしくて」

 腕の中でこわばっていた小さな体の、緊張が解けるのをカカシは感じた。
 そっと、胸に預けられるかすかな重み。

「いつでも助けられるばっかりで、わたしなんて誰のことも助けられない、必要ない存在なんじゃないか、って」
「サクラ、」
「でもね、いつかちょっとずつでも、返していきたい。みんなに。もちろん、先生にも」

 返しても返しきれないほど、たくさんたくさん助けてもらった。
 それは身を呈して守ってくれたというばかりでなく、いつでも不安なときには大きな背中で前を歩いていてくれたこと、どんなささいなことでも、見逃さず見守っていてくれたこと。

「わたしね、いつからかずっと、カカシ先生が好きだった」

 きゅう、と服の裾が握り締められる。サクラの覚悟が、ひしと伝わる。
 
「でも先生は、違うでしょ? 
 わたしのこと、好きって言ってくれるだろうけど、でもそれって、わたしの言ってる好きと、違うでしょ?」

 よっぽど、サクラのほうが。
 こんな、衝動的に動いてしまった自分よりも、よっぽど大人で、覚悟もあった。

「いま、こうされて…確かにちょっと驚いたし、どうしていいかわからない、って思ったけど、それでも…。
 もっと、はっきり思ったの。ただ抱きしめられたいってだけじゃなかったの」

 わたしもね。
 はじめて、サクラの腕が、カカシの背中にまわされる。

「わたしも、先生のこと、守りたい」

 体格差のせいで、しがみついているようでかっこ悪くても。
 ぎゅう、と抱きしめてくる力は、とても優しく、あたたかい。

「先生の覚悟ができたら、わたしのこと、ちょっとでいいから、考えてくれる…?」

 誰かを守りたい、守らなくてはと思ったことこそあれど、自分が誰かに守られることなど、考えたこともなかった。
 それも、部下であり、教え子であり、女の子である、サクラに。

 嬉しいような、恥ずかしいような、情けないような、くすぐったいような、不思議な感情がひしめく。
 なんだか返す言葉に迷ってしまって、ぎゅうと抱いた細い体に、カカシは顔を埋めた。
(20140125)