夕べきちんと締め切らなかったカーテンの隙間から漏れる陽の明るさに、うすく意識が覚醒しはじめる。
ベッドに入る前にちらりと眺めたカレンダーを思い出す。いまさら印なんてつけはしないけれど。
今日は、3月28日。
思い出して、ゆっくりとまぶたを上げる。
とうとうこの日がやってきた。
執務室にこもるその人は、こちらがもちかけた昼食のお誘いに考えるそぶりも見せず即答した。
机の両端には山のように書類が積み重ねられており、手にしていた一枚をその山へ再び戻すと、戦場でしか見たことのないようなすばやい身のこなしで、あっという間に隣へ並んできた。
相当煮詰まっていたのだろう。これは抜け出させてしまった分の手伝いくらい買って出ないとマズイだろうな。
廊下ですれ違ったシカマルから向けられた責めるような視線が含んだ、刺すような痛みを思い出す。
わざわざ呼び出してまでやってきたのは、色気も何もない大衆食堂。人の話し声や足音、食器がぶつかり合う音でガチャガチャと落ち着かない雰囲気に、むしろいまはほっとしていた。
昔は気さくに連れ立ってどこへでも行けたが、近頃はなかなかそうもいかなくなってしまった。大勢の中に紛れて、これは特別なことでもなんでもないの、という宙に浮いたアピール。
誰もそんなこと気にしてはいないのだけど。
「サクラがおれに甘えてくるだなんて珍しいじゃない」
まわりにもっと頼れる上司がいるんじゃない?
里の長が、そんなふざけたことを言いながらのんきに喉を潤している。
騒がしかったが、席は五割程度しか埋まっていない。しかし案内されたのは横並びのカウンター。六代目はたびたびこの店にやって来ているのかもしれない。食事くらい落ち着いて、人目につかないように。きっとこれは店側の配慮だ。
ことんとガラスのコップを置く音がやけに大きく聞こえて、自分が少し緊張しているのに気がついた。
「カカシ先生こそ、やっかいな教え子たちを手放せたからって、ほったらかしにしすぎじゃない? もうわたしたちなんてかわいくないんだ」
「はは、手のかかる子ほどかわいいって言うだろ。それに、おまえたちの顔見ちゃうと、だらしない先生に戻っちゃいそうで」
わたしも大概だったが、やはり先生もなかなかだ。本音を冗談でくるんでごまかすすべは、きっと間違いなく彼のおかげで上達した。
うそとは言い切れないようなじょうずな逃げかた。本当は日々の職務に忙殺されて、かつての教え子どころではないだけだ。いまやもう彼は、わたしたちの“先生”だけではいられないのだから。
「で、なにがあった?」
珍しいと言われてしまうだけあって、ただのランチのお供とはやはり思われていなかったようだ。
カウンターに肘をついて、ちらりと横目だけで向けてくる視線に反射的に背筋が伸びる。
やはりこの店で良かった。もしテーブルを挟んだ向かい合う座席につかされていたら、自分のこの緊張のせいで、改まってしまって妙なムードになってしまっていたかもしれない。
「実はわたし、今日誕生日なんです」
なるべく気を遣わせないようにと心がけたが、どうしたってこんなことを言えば押し付けがましくもなる。
案の定、しまった…なんて言葉でも聞こえてきそうな焦りの表情を浮かべた先生は、僅かに視線を落とし2,3秒程度思案したあと、諦めたように顔を上げ、歯切れ悪く口を開く。
「あー…すまん、最近日付がちっとも入ってなくてな、そうか、もう3月も終わりか。悪いな、今度埋め合わせする」
「違うんです、いいんです、そんなことは」
「昔はちゃんと覚えていたんだがな…俺も歳かな」
「忙しいからでしょ? それに、わざわざ祝ってもらおうだなんて、図々しいこと考えてませんよ、わたし。
でも、今年は…、カカシ先生にしか、頼めないお願いがあって」
「…お願い? まあ、お祝いの代わりがてら、おれにできることならなんでも」
願ってもない申し出だった。
体を先生に向き直し、今日という日を迎えるまで、胸に抱き続けた決意をついに明かすとき。
すうと軽く息を吸い込んで、ひとおもいに告げる。
「カカシ先生のイチャパラを読ませてください」
あんなに騒がしかった背景音がすべて掻き消え、世界がまるでふたりきりになったかのような錯覚。
交し合う視線を逸らすこともせず、まっすぐにお互いだけを見つめて。
「…だめ」
しかしそんなロマンチックな時間をたっぷりと過ごして返ってきたのは、シンプルな断りの言葉。
「なんでよ、なんでもするって言ってくれたじゃない」
「いやあのな、あれは大人の文学なの。おまえみたいな子どもに、」
「わたし18歳になりました」
二の句を告げられる前に退路を絶った。
いつだって軽やかな口調で乗り越える先生が、珍しく抜け道を見つけられず慌てている。
「先生お願いよ、別に先生に幻滅したりわかりやすく距離を取ったりなんてしないから」
「いやいやいやだっておまえ内容知らないのにそんな口約束」
「…やっぱりそんな低俗な内容なんだ…」
「おい! イチャイチャシリーズはな、自来也先生が綴られた崇高な物語で、」
「だからわたしも崇高な大人の世界を知りたいんです」
先生が再び押し黙る。
目を泳がせる先生なんてもう二度と見られないかもしれないわ…なんて、作り上げた真剣な表情の下で少し楽しんでいる気持ちは否定しない。
それでも何度となく死線を掻い潜ってきた凄腕の上忍は、そう簡単には諦めてはくれなかった。
「…じゃあ、シリーズの中でも初心者に優しい1冊を選んで、新しいの買ってくるから。1日待ってくれ」
「だめです。先生が今懐にしまっているその本じゃなきゃだめなんです」
なんでだよ…、とうとう力なく項垂れてしまった。
それでもなおも折衷案を模索しているだろうことは容易に想像がついたが、あいにくこちらには歩み寄る気など一切ないのだから時間の無駄だ。
「どうしてサクラちゃんはそんなに先生を困らせるの…」
「あら、これまでずいぶんおりこうにしてきたと思うけど? そんな手のかからない教え子が大人の階段を昇ろうとしてるの。それを先生に手伝って欲しいだけです」
「賢いサクラちゃんにはわかるでしょう、18禁本読めば大人だなんてそんな安直なね、」
「お願いよ、先生にわたしを大人にしてもらいたいの」
「頼むから誤解を招くような発言しないでくれ…!」
とびきり重いためいきをひとつこぼしたあと、両手を軽く挙げて降参のポーズ。
「…わかったよ」
それからしぶしぶといった様子で、わずかに腰を浮かせてズボンのポケットから件の本を取り出し、こちらへ差し出してきた。
「ありがとうございます!」
張っていた気が緩み、真顔がほどけて唇の両端が吊りあがるのを感じた。
迷いなく両手でそれを受け取る。間違いなくそれは12歳のとき、7班としてはじめて行った鈴取り演習のときに見た『イチャイチャパラダイス』。
大切なものなのだろうが、彼がいつも持ち歩き、暇さえあれば読み返しているこの本は、おさえつけていなければすぐさまカーブを描いてしまうくらいには歪んでしまっており、表紙の端の部分はよれて、いくつかのシミや汚れのようなものも見受けられる。
でもなにより、いざ手にしたとき、この本が放つ物理的な温度に驚いてしまった。
それは体温だった。カカシ先生の。
「カカシ先生にも体温はあるのね」
「…おまえ、おれのことなんだと思ってるの?」
思ったままをつい口にしてしまったら、すかさず額を小突かれた。
こんなにもそばで彼の人間活動を見守ってきたのに、どこか人間離れした存在のように感じていたところはあったかもしれない。
何度となくあたたかい心に救われてきたというのに、そういえば、肌を触れ合わせる機会だなんて、なかったかもしれない?
あったとして、それは大概カカシ先生の体温に感動を覚える暇もないような状況のときばかりだったにちがいなかった。
(うれしい、)
本を開く前からこんなにもたくさんの発見がある。
おもしろくなってぎゅうと胸に抱いてみたら、思わずふふと笑みがこぼれてしまう。
とうとう彼の鉄壁の防御から、自分の手中におさめたのだ!
「発禁本持ってそんな笑顔になられておれはどうしたらいいのかしらね」
おまえの育て方間違えたかしら。
随分と真剣な表情でそんなことをこぼしていたが、そりゃ12歳の時分から平然とエロ本目の前で広げられていたらね、そこらへんの感覚も鈍くなるという話で。
そういう意味では育ててもらった覚えはなかったけれど、大人が子どもに及ぼす影響について、彼はもう少し真剣に受け止めたほうがいい。
「どうしておれのじゃなきゃだめなの? …っていうのは、聞かないほうがいいのかな?」
「…お任せします」
それは子どもだったころからそばで見ていた大人の真似をしたかった、という子ども心と。
あとは…。
胸に抱いていたその本の表紙を、いよいよ開く。え、いまここで!?なんて、また慌てふためく声が聞こえたが気にしなかった。
刻まれた文字を追う前に、すん、と鼻が反応する。
本のにおいが好きだ。紙とインクのにおい。そして時の経過が刻む古びたにおい。自分の本からは感じない人の家のにおい。
(カカシ先生のにおい…)
薄手でやわい本文の用紙からは、もっとはっきりとカカシ先生そのひとを感じることができる。
指のあと、手垢、たわんだページ。
自分は読書好きだったはずだが、印字された文字よりも魅力的な情報が、そこにはあまりにも多く詰まっていた。
「お願いよサクラちゃん、貸してあげるから持って帰って…目の前で教え子が世間に変態を晒すのに耐えられない」
「それが自分の愛読書だから気がとがめてるだけでしょ、大丈夫よ。自己責任だもの」
勘弁してよ、とカウンターに突っ伏した先生の耳はほのかに赤い。
たった一冊の本で、これまで見たこともない彼の新しい表情を見せてもらえた。これほどの誕生日プレゼントはない!
そろそろかわいそうだなと思い始めてきたところで、お待たせしましたーと給仕係がお盆を抱えてやってきた。
助かったとばかりに顔を上げた先生の安堵の表情を眺めながら、わたしは早くも今夜じっくりとこの本を開くそのときのシミュレーションに余念がなかった。
浮き立つ心のままスムーズに仕事を終え、きちんと定時にドアをくぐった。
今日が何の日か知っている数名の同僚たちからは楽しんでねなんて気の利いた言葉をかけてもらったりして。
そうよ今夜は誕生日の夜。
いつも行くスーパーで好きなお惣菜を買って。
閉店間際に滑り込んだ和菓子屋で、春の特製あんみつを買って。
あたたかい緑茶を用意して、ひとりっきりのデートのはじまり。
本当はきちんと順を追って物語を楽しみたいところだったけれど、最初にこの本を受け取ったときに、見つけてしまった開き癖のあるページ。
あそこでそのページを開いて反応を楽しむことも捨てがたかったけれど、じっくりとまずは確かめてみたかった。
何度も読み返されたこの物語のなかで、先生がこころを震わされた描写を。
『どうしておれのじゃなきゃだめなの?』
それは子どもだったころからそばで見ていた大人の真似をしたかった、という子ども心と、あとは。
好きなひとのことをもっと知りたい、だなんて、先生をいっそう赤面させそうな、あまりにも単純な恋心のせいよ!
(20150328 ハッピーバースデーサクラちゃん!)