落ち葉を控えめに踏み鳴らす音がかすかに聞こえ、顔を上げる。
太い木の幹に背中を預け、しばしの間読書に没頭してしまっていた。先ほどまで橙に染まっていたはずの空が、いつの間にか紫紺に包まれている。
空気の冷たさに加え、暖かみを感じないこの色の世界が、いっそう寒さをつきつけてくるようだ。
耳をそばだて周囲の様子を探るが、幸い緊張を保ち続ける必要はなさそうだった。
つくとはなしにこぼした白い息が、闇に溶けた。
国境の村の内偵の任務で、フォーマンセルを率いている。
村人の生活区域から離れた森の中に野営を組み見張りを続けていたが、忍里から離れたそこはとても穏やかだった。
他里のスパイが紛れているのではという疑惑があったため、あらゆる状況を想定して手練れを揃えた小隊を構成したが、幸いその腕を披露する機会も、ここへ来て十日ほど経過するが、いまのところない。出くわした賊のような集団を何組か伸したのがせいぜいで、片手間で処理できるようなものだった。
このまま何事もなければ、あと二、三日で帰還を告げる号令が飛ばされてくることだろう。
「カカシ先生」
足音の正体は、医療班として同行メンバーに抜擢されたサクラだった。手のひら大の布袋をぶら下げている。
「兵糧丸の差し入れよ」
ここは紛争地域ではない。食事も簡単なものではあったがそれでもきちんと時間を作って取ることができている。
そもそも出立前に非常用にと携帯してきているのだ。わざわざ追加で補給する必要もない。
「かわいい教え子の気遣いよ、つべこべ言わずに受け取ってください」
「…俺、なにも言ってないけど」
「なにか言いたげなのは顔を見てればわかるわ」
はい、と改めて差し出してきた布袋を素直に受け取ると、サクラは満足げに微笑み、隣に並んだ。
「先生さっきの戦闘のあとまたふらついてたでしょ?疲労回復にさっそくエネルギー補給したら?」
「…なにか意図があるんだ?」
あんな小物相手にふらついてなど断じてしていなかったが、じいとこちらを見上げてくる瞳からはこれ以上の抵抗を見せれば無言で口にねじ込まれそうなまでの威勢を感じ取り、おとなしく従うことにした。
小さな布袋を開ければ、一瞬よく知った甘い香りが鼻腔をくすぐる。中にはつやのある球体が詰められており、暗がりのため識別は難しかったが、黒色か茶褐色をしたそれは、兵糧丸と思って見てみると違和感しかない。
というより、これが何であるかの察しは既についたのだが、向けられ続ける視線が突き刺さるように思えて、おとなしくひとつつまみ上げて口に放る。それはやはり、想像していた通りの甘味と、かすかな苦味。
「…ずいぶん糖度の高い兵糧丸だね?」
「疲れたときには糖分補給は大事なのよ。体の疲れには炭水化物のほうがいいみたいだけど、本当は」
「へーそうなんだ…いや、ていうかこれ…」
「兵糧丸です」
きっぱりと言い切られたが、明らかにこれはチョコレートだ。
確かに気を張り詰めていたところでほっとするような気はするが、甘いもの好きというわけでもない自分にわざわざどうしてこれを、と考え始めたところでようやく教え子の巧妙な罠にまんまとかかっていたことに気がついた。
「二月かぁ、どうりで冷え込むわけかー…」
長いまつげがばちんと音を立てそうなほど大げさに瞬いたのを見逃さなかった。
サクラとて別に騙しきれるだなんてはなから思ってはいなかっただろうが、しかし気がついても気がつかないふりをするだろうと踏んでいたのか、なるべくこちらにそうとは悟らせぬようにと張り詰めていた虚勢が崩れ、動揺を露わにしたのだと見て取れた。
女の子って好きだよねえ、こういうイベント。きっと乗らないでいるのも寂しいのだろう。
取り立てて興味があるわけではなかったが、里じゅうがにわかにざわつくのだ、気がつかないというほうが無理がある。
そこそこ名の知れた上忍(自負)ともなると、自分のあずかり知らぬあちこちに義理が発生しているらしく、なかなか厄介なイベントだった。だからこそ今年は当日近辺に里を空けることに内心胸を撫で下ろしもしていたのだ。
実際この渡された自称兵糧丸にどこまでの意味が含まれているかはわかりはしなかったが、それがたとえ慣れ親しんだ上司への義理からくるものだとしても、遠征先でまで気遣われていたのかと思うと、不思議と悪い気はしなかった。
それでもそんな気になるのは、相手がサクラだからだ。部下と言い切るには近すぎる、仲間と呼ぶのも少し遠いような距離の。
さてどうくるかな。こちらの手の内は明かした。
何も考えてないふうを装い様子を伺っていると、気持ちを整えるように、ひと呼吸。
どうやら、この件に関しては多くを語らないつもりのようだ。
「今夜も寒いわ、こういう時期の野宿にはヤマト隊長が恋しいですね」
「んー…、実は火影様をうまく言いくるめようとしたんだけど、里の修復が先だ、って断られちゃってね」
当然だわ。指先をこすり合わせながらサクラが息を吐いた。わずかに湿度を帯びた指先からなんとなく目が離せない。
寒そうだな、とひとごとのように思いながらやり過ごす。
どちらもヤマトについてだいぶ都合のいい物言いをしていたが、お互い特には触れなかった。
「支給ベストももう少し中綿を入れて保温性を高めて欲しいわ」
「まあ、防寒目的じゃないしね。そういえば珍しくベスト着てると思ったけど、寒さ対策だったわけ?」
「思ってたほどの効果はなかったわ。…カカシ先生はいつも寒そうに見えないから、期待してたのに」
がっかり、とわざとらしく肩をすくめる姿に、なんだかこちらが悪いような気がしてきてしまう。
別に寒くないわけではない。そうとは見せないだけで。だが寒さに多少鈍感な自覚もあったから、否定もしきれなかったが。
「まー、俺とおまえじゃ違うだろうね」
「なによ、寒さの耐久度合いで忍の技量を比べようって?」
「なんでそーなるの、俺は男でおまえは女の子でしょうよ」
むっとして言葉を続けようとしていたサクラの表情が一瞬にして緩み、あきれたようにぽかんと口を開けた。
「…なによそれ、急に男女を持ち出すの?」
「そ。往々にしてそういうもんだろ」
「カカシ先生にしては随分乱暴な言い分だわ」
「そうかな?」
そうかもしれない。ふたりの関係を男女にしないようとしていたサクラの気配りに強引に踏み込み、その真意を確かめようとしている。
男として渡されていたのなら?あの自称兵糧丸を。それともやはり単に身近な上司への義理だと言い切られてしまったら?
わかったところでどうするというのか。確かにいつもの慎重すぎる自分からしたら、乱暴な展開かもしれない。
しかし、実際チャンスなら何度もあったはずだ。それこそ皆で食事していたあの席でなら、大っぴらに義理を宣言していっぺんに渡せたのだ。
わざわざことらがひとりきりになるタイミングを見計らってやって来るだなんて。
先に期待させるようなことしたのはそっちでしょーよ。
(…ん?期待?)
自分の心に湧き上がった単語に違和感を覚え、サクラの胸中を推し量るのに夢中になっていた思考がぴたりと止まる。
相変わらず寒そうに擦り合わせるその指を包んで、その温度を確かめたいと思うこの感情はなんだろう。
…いやいやいやいや、違うだろう。不寝番でたったひとり、鬱蒼とした森に控えていたせいだ。優しさを向けられ、つい甘えたくなってしまっただけだ。
振り回そうとしていたつもりのはずが、かえってこちらが迷子になってしまった。
言葉を続けられないでいると、居心地が悪そうにサクラがもたれていた木の幹から身体を離す。
「あーあ、やっぱりカカシ先生よりヤマト隊長が一緒だったら良かったな、屋根のあるところで眠れたのに」
「…悪かったよ、木遁使いじゃなくて」
ばつが悪そうにつぶやけば、ニシシと笑われた。いじめっ子のような笑い方。こうして、意地悪には意地悪で返される。
一歩でも踏み違えればどちらにでも転がるような線の上で、お互いが絶妙なバランスを取りながら歩き続けてきた。
おかげで、あっという間に元通りだ。
「じゃあ、わたしはそろそろ休ませてもらいますね。ここ、お願いします」
おやすみなさいと軽く告げ、あっさりと去っていく背中に物足りなさを感じて、思わず「なぁ」と呼び止めていた。
「…その兵糧丸、アイツらにも配ってくるの?」
おそらくベースキャンプで雑魚寝を決め込んでいるであろう、小隊の残りふたりを思い出した。
どちらも付き合いの長い信頼できる男たちだ。それでも最初に自分が不寝番をする夜には、サクラは自分の目の届くところにと、つい過保護を発揮してしまい疎ましく思われてしまったことを思い出した。しかし今にして思えば、それはただの過保護ではなかったかもしれない。
「…どうして?」
「…いや、ちょうど切らしてるから、兵糧丸。俺に全部ちょーだいよ」
「先生よっぽど気に入ったのね? この兵糧丸」
「そうだね、気に入った」
子どものわがままを聞いたような笑い方をするサクラに、やはり笑顔を返す。
本当はただ単純に、アイツらに渡したくないと思っただけなんだけど。
(それを言ったらおまえは、どんな顔するかな)
(20150214)