いくら甘味処の繁忙期を過ぎた時刻とはいえ、ひとのいるところはそれなりに音がさざめく。
 それでも随分控えめなバックグラウンドに掻き消えそうなほどの、諦めたようなつぶやき。

「先生、あたしを連れてどっか遠くに逃げてくれない?」

 酔っ払った末の、焦点の合わない会話みたいに。
 それはあまりにも脈絡がなかった。

「…なにそれ。はやりのドラマか何かですか」

 だからこそ、あまりにも夢のような戯言に、隠すこともせず呆れたように答えてしまった。
 そんなカカシのあまりにもきっぱりとした態度に、むしろサクラが苦笑いをする。

「ひどいなあ…、笑ってくれればまだ傷つかないのに」
「…あのね、相手が違うでしょ、」

 冗談だとしても。
 悪戯にそんな切なげな瞳でつぶやかれたら、勘違いする男はいくらでもいるだろうに。
 それこそ、

「例の恋のお相手に、任務のこと話したの?」

 きっとあっけなく陥落するだろう。いま自分に向けた女の表情を見せ付けてやれば。
 しかしその悩ましげな様は一瞬でなりを潜め、え、とまぬけな顔で聞き返される。

 勿体無い、と思ってしまう。
 それでもこういう隙も、案外弱いのよねー男ってばかだから。

「最近そっちは聞かなかったけどさ。あいつから、聞いたよ」

 件の後輩の恋路は、あっけなく終わったらしい。いや、そうしろと忠告したのは自分なのだが。
 好きな人がいます、そんな常套句で。
 あんなに熱烈だったわりにはあっさり引いちゃうのね…と、言いかけたのも事実。
 どうやら引き際を知りえていたらしい。ある意味、随分大人だな、と思う。

「…そ、」
「春野さんが幸せになれるよう身を引きますって。いい奴だよねアイツ」
「…ほんとにね、」

 このタイミングで、わざわざこんな話をすることもなかったか。
 塞ぎこんでしまったサクラを横目に、少しだけ後悔した。

「相談してみたらいいのに。そのいい奴を蹴ってまで守りたい好きな人ってヤツに」
「…先生、迷惑なんだ」

 おそらく。不安に押しつぶされそうになっているのだ。はじめての単独任務で。
 単純に、教え子から頼られるのは嬉しかった。
 だから元気付けてやりたいと思って、慣れない色恋話など振ってみたというのに、かえって悪い印象を与えてしまったようだ。

 ばかだなーとわしゃわしゃと頭を撫でる。
 わ、と声を上げられたが気にしなかった。

「うまくいくよ、きっと」

 任務も、恋も。おまえなら。
 サクラは笑っていたが、どこか表情は硬かった。

 やはり、もうこの役目は、自分ではないのだと思い知る。
 それでも本人が先生としての自分を求めてきたのだ。

 先生、とそれでもサクラが小さくカカシに問いかける。

「…もしもね、もしも…。
 先生を一生懸命自分を想ってくれてる相手が、後ろめたい過去持ってたら、どう思う?」 

 いつかの帰り道。そんな話をした。往来で。
 自分にそんなふうに想ってくれる人、または自分が誰かを想うことがあるのだろうか、とどこか他人事のように考えていたが、サクラの信念には納得させられるところもあったのを覚えている。

「一生懸命好きだったら、それからは後ろめたいことなんてしなくなるんでしょ?」
「…そうね、」

 それはサクラの弁。

「でも、俺だったら、だけど…。そうだね、ちょっと残念に思うのと、ほっとするとも思う」

 不思議そうなに見つめてくる瞳に、笑いかける。
 強い女の子の信念はなるほどと納得した。
 だがこれも、自分に置き換えた場合の、素直な気持ち。

「どっちにしろ、だめなんだよ。俺は。ずるい人間だから」

 きれいすぎても、ためらってしまう。だから一緒に後悔してほしい。
 でも、何かあったとしても、嫌悪感を抱く。自分を棚に上げて。

「…難しいね」

 たぶんサクラは、過去は気にしないと言って欲しかったのだろうな、と思う。
 それでもなぜか、本音を告げてしまった。
 厳しい言葉をかみ締めるようなつぶやきに、また後悔する。

「…悪い、本当はおまえを励ますつもりだったのに、ことごとく裏目に出てるな」

 冷たくなった湯飲みから、すっかりと冷めた茶をすする。ずいぶんと長く話し込んでいる。
 それでも、サクラが欲しがった言葉を、ひとつでもかけてやれただろうか。

「ううん、いいの。だから先生がよかったのかもしれない」
「俺が?」
「へたな励ましなんか受けたら、余計つらくなるもの。はっきりとした意見が聞けてよかった」

 サクラが向けてくる表情はあくまで笑顔だ。でも、あくまで硬い。 
 なにかが、引っかかる。

「よくわからないけど、解決したの?」
「…ううん、わからない。でも、どうしたって避けられないなら、背負うしかないよね」
「…ねえそれ、任務の話? それとも、」

 最後まで言い終わらぬうちに、サクラが伝票を持って立ち上がる。
 手を出そうとすると、今日はわたしが!とさっさと会計へ向かってしまう。
 ふと、テーブルに視線を戻すと、サクラの頼んだあんみつは、半分も減っていない。

「おい、大丈夫か?」

 店を出て、いやに軽やかな足取りが気になって、手首をつかむ。
 確証のない嫌な予感が、胸をよぎる。
 
「…逃げるか?どこか遠くに。一緒に。俺と」

 散々ばかにしたせりふを、つい口走っていた。
 一瞬だけ眼を見開いたあと、ふわりと優しい表情で笑う。
 今日向かい合ったなかで、一番明るい笑顔。

「ありがとう、先生」

 それはとてもきれいな笑顔だったのに、なぜか一段と距離を感じてしまった。
 家まで送ろうか、と言いかけて、続けることができない。
 そうこうしているうち、じゃあねと手を振る背中はあっという間に小さくなる。

 教え子の成長は嬉しいようで、巣立っていく背中はどこか寂しい。
 他のふたりが巣立つところをきちんと見送ることをできなかったせいか、自分のサクラに対する庇護の感情が、いやに強いことを実感もしていた。

 でも。
 それにしても、この言いようのない漠然とした不安はなんなのだろう。

 小さくなった背中が角を曲がって見えなくなるまで、カカシはその場から動くことができなかった。







「おお、カカシ」

 下忍付の上忍仲間に呼びかけられ、ゆっくりと振り返る。

「おまえんとこのくの一、やったな」
「くの一?」

 今きちんと師弟関係が結ばれてると言えなくとも、カカシの教え子はたった三人きり。くの一ともなれば、紛れもなくサクラだ。
 なんとなく、くの一という言い方が引っかかる。

「例の好色大名、やったそうじゃねーか。聞いてないのか?」


 そのひとことで、すべてを悟った。
 最近話題に上る、相次いで神隠しにあったように消える10代そこそこの少女の話。また、その事件の黒幕がどうやら木の葉隠れ近くの里の大名であるということ。
 問題は、ひどく偏った嗜好であるため、差し向けるくの一の判断が付かず、火影が悩んでいたこと。

 血の気が引く思いだった。どうやらくの一の功績について語ってくれていたようだが、まったく耳に届かない。
 
 サクラはあれほどまでに、はっきりとしたサインを出していたのに。

 そのSOSサインを笑い飛ばして。
 おかげでこのざまだ。

 本当は気付いていたんじゃないのか?
 向けられたまなざしに。
 気付かないふりを、し続けて。

 あのとき、つかんだ手を、離してさえいなければ。

(おまえとなら、どこへだって)

 どうしてあのとき、伝えられなかったのだろう。
(20140113)