「ありがとうございましたー」

 若い女性店員の声を背に受け、茶屋を後にするサクラの足取りは軽かった。
 当たり前のように会計を済ませたカカシがゆっくりと後ろを歩く。それだけで嬉しかった。

 もうすっかり陽も暮れかけている。通りを歩く人たちは、家の灯に向かっているのだろう。


「まだ笑ってるのー?」
「いいえー」
「じゃあどうしてそんなに機嫌良さそうなの?」
「そんなことなーいわよっ」

 しかしそのステップは、気分の悪いときに踏むようなものではない。
 どんどん先へ行ってしまうサクラの手首をカカシがそっとつかまえる。驚いて振り返るサクラに、やさしく笑いかける。

「俺にはそのスピードはきつい」

 歩くには速い、だけれど走るにはゆっくり。
 女の子特有のステップにあわせるすべは、カカシにはない。

「先生、隣を歩きたいのね」
「そー」
「しょうがないなぁ」

 真横に追いついたカカシが、ようやくサクラの手首を解放する。
 
(離さなくていいのに)

 そう思っても、サクラはその想いの伝え方を知らない。



「で?結局モテ期の件はどうするわけ?」
「そうねー。とりあえず幼稚園をカウントしないことにしたわ」
「おやおや。つまりカカシ先生の言葉は必要なかったわけだね」

 もしかして無駄骨?とぼやくカカシの背中をぽんぽんと叩く。
 歩調がぴったりと合っている。どちらかが合わせようと思ったのか、あるいははじめからふたりのペースが同じだったのか。

「それにね、先生。あたしまだ14よ!?こんな早いうちからモテ期なんて特権を失ったらこの先まっくらだわ!」
「だいじょーぶ。サクラはどんどんきれいになって、きっとはらっても男が寄ってくるようになるよ」
「それに、今回は場所柄が悪いのよ。病院よ病院。どうしたってやさしくするじゃない!その一時の勢いで好きですだなんて言われたって、どこまで信じたらいいのよ!」
「でも、全部うそばっかりでもないでしょ?実際そういうことから始まった人だっているわけだし」
「それは、そうだけど…。でも」
「つまり、サクラには、好きな男の子がいるわけね」
「…は?」

 一体どのあたりからそういった結論に導かれるのかが理解できず、サクラは露骨に顔をしかめた。

「だってそーじゃなーい。せっかくチャンスが振って沸いてくるんだったら、様子見くらいしたって悪いことじゃないでしょ。好きになってからじゃなきゃ付き合えないってのもわかるけど、好きになろうともしないんじゃ、始まるものも始まらないデショ」

 得意げに、というよりはさもあたりまえだというようなニュアンスで言い切るカカシに、反論のための言葉がひとつも浮かばない。
 というか、事実その通りなのだから、反論と言うより、この場合は言い訳になるのだろうか。

「うふふー、図星と見た。いんやー若いねー青春だねー」
「な、によ! いないわよ好きな男の子なんて!」
「またまたぁ」

 いまさら隠さなくたって、とふざけて額を小突いてくるカカシの指が憎らしい。
 嘘ではない。好きな男の子などいないことは、本当のことだ。男の子は。


「一途にあっためてくんだねぇ、サクラは」

 しみじみとそう言われてしまったら、否定するだけばかばかしく思えてきた。
 実際カカシの言っていることも、半分は間違っていない。


「…だってやっぱりとっかえひっかえだなんて聞こえが悪いし、後ろめたい」
「えー、いちいち気にするかなぁ」
「本気になったことがないひとに言われたくありませんー」

 カカシはうーんとうなりながら、頬を掻いた。
 横目でその様子を見ながら、サクラはこっそりため息をつく。

 ああ言っていたけれど。本当に本気になったことがないのだろうか。
 今はとっかえひっかえでも、昔は。
 それこそ、初恋、なんて。

(先生の、初恋…)

 そんな純粋な響きがあまりにも不似合いで、思わず苦笑する。

「いつか、先生も本当に本気になれたらいいね」
「んー、でも俺の過去って美しいもんじゃないし、無理じゃないの?」
「…確かに昔のことは気になるけど、わたしは今の先生は好きよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないのー」

 向けられた笑顔がびっくりするほどやさしかったため、動揺したサクラは思わず目をそらす。
 おかげでほとんど無意識のうちに言った告白めいた言葉に気付くのに遅れてしまった。
 だけれどきっと、カカシはそれを表面上の意味でしかすくっていない。だからこそこの笑顔を向けるのだと思い直し、安心する。

 こんなふうに、ひとの気持ちにお構いなしに無条件にやさしさを振りまくのは罪深いわ…などと歳に似合わぬ悟りきったようなセリフを胸にしまいつつ、カカシのほうをちらと盗み見た。すると一瞬前までそこにあったはずの笑顔は、あまりにもせつないものに変わっていた。


「だけど一生懸命好きになられたら、きっと俺が後ろめたくてくじけそうだよ」

 本気になれないのは、きっとその覚悟がないからなのかなと、カカシは少しかすれたような声でつぶやく。


 どうしてこうもいちいちせつなくさせるような言葉ばかり吐くのか。
 同情を誘うようなつもりでないことはわかっていた。だからこそ、タチが悪い。

 サクラは慎重に言葉を選びながら、だけれど迷いなくはっきりとした口調で再びカカシをしっかりと見つめた


「だいじょーぶよ。一生懸命好きだったら、そういうの全部ひっくるめてそれでも好きなんだもの!」

 サクラとしては殺し文句レベルのセリフだったのだが、カカシはうーん?とマヌケな声で首をひねる。

「…それってとっても支離滅裂だね」
「違うわ。先生のは過去の話。あたしのは未来の話!」

 いいこと、とカカシの行く手を阻むように立ちふさがって、腰に両手をあてる威圧のポーズ。
 なんだか今だけは、何があっても流してしまってはいけない会話のような気がしたから。

「過去のこといまさらあーだこーだ言ったって変えられないんだもの仕方ないわ。でも、後ろめたいって思うんだったら、これから後ろめたいことなんてしようと思わないでしょう?」

 本気になる覚悟があるのなら。

「そのとき一生懸命ならきっと伝わるの。ぜったいに」


 年端も行かない少女がいい歳の男に説教と言う図も相当に奇妙なものだが、すっかり盛り上がるサクラにはそんなことは気にならなかった。
 なにより、カカシの意思が変わらない限り、それは自身にとっても死活問題であるのだ。

 口を挟む余地もなくぽうっとその熱弁に聞き入っていたカカシは、一呼吸置いてからようやくサクラって、と口を開いた。

「大人だなぁ」
「女の実年齢を精神年齢と等しく考えないことね」

 まさにいっぱしの女のようにそう説くサクラに苦笑しつつ、再び横に並んでゆっくりと歩き出す。
 人の往来が少なくてよかった。大通りではないとはいえ、これではいい見世物だ。

 カカシには自分がこの先そのように一生懸命になることがあるのかわかりはしなかったが、こうして一生懸命なサクラには決して悪い気は持たなかった。
 きっとこんなふうに一生懸命に想われたら幸せだろうと、素直に思っていた。

「もしかしたら俺よりもサクラのほうがしっかりしてるかもね」
「それは微妙だわ…。わたしまだ先生の年齢の半分しか生きてないのに」
「うわ、そうなの? いやだー、なんか俺オッサンみたいじゃな〜い」

 もちろん2倍と言うのは今だけだけれども。
 それにしても壮大な歳の差に思える。

(でもそんなの関係ないわよー、とか思えちゃうのは、わたしが年下だからなのかな)

 好きになってしまってから…、と言うよりは、好きだと自覚してしまってから。
 あなたしか見えなくなってしまってから。

 これまでだったらストレートにぶつけていた「好き」と言う想いは、自分の心の奥のほうでとどめることに徹していた。
 自分が傷つくより、困らせることを怖がるだなんて。初恋を実らせようと躍起になっていた昔とはだいぶ変わったのだなとサクラはしみじみ思う。

 それこそまだ未来ある14歳なんて若さで、ずいぶんな覚悟を背負い込んだものだと、我がことながら呆れたりもするけれど。
 たとえどんな関係であっても、こうして隣を歩いて行くことができたらと思う。少し肩を落としたようなカカシを横目で見ながら、それでもサクラの心は満たされていた。


「んー、でも先生ちょっと寂しいな」
「なにそれ」
「サクラがそんなに大切にしたい恋をしてるなんて、胸が痛いよ」



 ばかね。
 でも本音のすっぽり覆われた言葉に動揺しているわたしはもっとばかだわ。


「先生!」

 ん?とのんびりした声が聞こえてくると、それまでずっとそらさずにいた目を伏せた。
 目を見て話し続けられるほどの勇気は、まだなかった。
 
 

「…手、つないであげてもいいわよ」
「あら」

 さみしいんでしょ、今日だけ特別なんだからね!
 なんて意味合いが伝わればと思ってこそだったが、はたして特別なのはどちらであるのか。


「恋のお相手に後ろめたくないの?」


 唇の端が、上がってしまう。
 
 足取りが軽すぎるくらい軽い。油断すればスキップでもはじめそうだ。
 そうすれば並んで歩けないけれど、また手首をつかまえてくれるだろうか。


 だけれど本当は、待つのは性分じゃない。
 今日だけはいいかな。ヒマそうな右手を、返事を待たずに拉致してやった。



(20060917up)