「…うそ」
アカデミーの中庭には大きな桜の樹が1本だけ植えられている。春には言葉も失うくらい美しく花を咲かせる樹なのだが、しかしその存在を知る者はごくわずかだった。
そのごくわずかのうちのひとりであるサクラだったが、その太い幹の根元にベンチが備え付けられていたのは知らなかった。つい一週間前もここへは来たのに、そのときには何もなかった。
しかし、さきほど図書館で借りたばかりの本を読もうとここへやってきたサクラが思わず息を呑んで立ち止まったのは、今は青々と茂る立派な大樹に見惚れたからでもなく、いつの間にか設置されていたベンチに喜んだからでもない。
原因は、そのベンチで熟睡する、顔見知りの上忍、はたけカカシの姿。
背もたれに安心しきって身を預け、顔は空を仰いでいる。大口を開けて。
(…なんっつーアホ面…)
せっかく、
…こんなに。
(…その口に虫でも入れてやろうかしら)
ごくそばまで近づいてみても、まったく起きる気配がない。
もしこれで自分が殺気でも放ちながら、首に手をかけでもしたら、弾けるように飛び上がるくせに。
それでも鼻の利くこの人には、きっとそんな見せ掛けだけの殺意なんて通用しない。
思わずまたぼうっと見入ってしまいそうになる前に、そういえばこの上忍を探しているという話を先ほど聞いたのだと、サクラは思い出した。
カカシを起こして促せば、彼を探していた者に恩を着せられるし、さっそく自分もこのベンチで読書に励める。一石二鳥だ。
とはいえ、寝坊大王であるこの上忍を起こすのはきっと容易くないだろう。
長期戦を覚悟しながら、サクラは油断しきった鼻をつまんだ。
「せんせー」
「んが」
一瞬呼吸のタイミングを見誤ったようだが、それでもめげずに眠り続けようとする根性があさましい。
「カカシ先生、ねぇ起きて」
今度はぺちぺちと頬を叩くも、あまり効果がない。
仕方がない。サクラは深く息を吸い込み、カカシの耳元に唇を近づける。
「カ・カ・シ・せ・ん・せーーー!!!」
「わッ」
この至近距離で、鼓膜も破けんばかりの大声。さすがのカカシも飛び起きた。
普段からカラオケや派手な口げんかで、喉の鍛錬はバッチリなだけはある。
「…サクラ」
「もうっ。こんなところで寝こけてると、誰にも発見されないまま白骨化するわよ」
「んー、サクラちゃんが見つけてくれたじゃな〜い…オヤスミ…」
「もー!!!」
それでも懲りずに夢の世界へ舞い戻ろうとするこのしぶとさ。
もはや感嘆してしまいそうになるが、せっかく半分意識のある今の状態をムダにはできまい。
カカシの肩を前後にゆすりながら、最後の手段。
「ちょっと先生、起きないとちゅーするわよ」
「おっ、いいねぇしてして」
ばちん!と音でもしそうなくらいの勢いで見開かれた目が、やけに爛々としていたのはどういうつもりか。
呆れるサクラをよそに、カカシはおどけてンーと唇を突き出してみたが、降って来たのはやわらかい感触ではなく、べちん!という鈍い痛みだった。
「!!!」
「制裁です」
「…地味に痛い!ハードカバーでぶつのは反則だと思います!しかも背表紙!」
地味に、というより実は相当痛かった。思わず手のひらで唇を押さえつける。血は出ていないようだが、だからと言って痛いものは痛い。
「イルカ先生が困ってたわよ。カカシ先生が報告書の提出に来ないから帰れないって」
「おやおや」
「もー、イルカ先生もこんなひとのために、わざわざ残業なんてしなくたっていいのに」
まったく人が良すぎるのよ!となぜかサクラの怒りの矛先はイルカにまで及ぶ。その件に関してはカカシも概ね同意見であったが、心地よかった眠りを妨げられた代償に、同情はしなかった。
「もう起きた?」
「起きた起きた。あー、いい夢見てたのにな」
「先生も夢なんて見るの」
「…あのね、オレのことなんだと思ってるわけ?」
上忍だけど超人じゃないのよ。そんなニュアンスを含め嫌味っぽくカカシはつぶやいたのだが、サクラは気付いていない。
それどころか、サクラの興味はカカシの座っているベンチに移っていた。
「ところでここ、ベンチなんてあったのね」
「んー。さっきまでなかったよ」
「さっき?」
「今日オレが運び込んできた。この場所、あんまり知ってる人いないから、昼寝にも読書にもうってつけなんだよね〜」
「勝手に? どこから? いいの?」
「んー、まぁまぁ、サクラちゃんも座ったら?」
どーぞ、と言ってカカシがわずかに横にずれ、手招きをする。
結局質問の答えははぐらかされたが、おそらくやましいことでもあるのだろう。どうせ追究したところでのらりくらり交わされるだけだ。あきらめて、サクラもおとなしくカカシの横に腰掛けた。
「ていうか、起きてもここでのんびりしてたら意味ないじゃない」
「ま、それはそれだ。イルカ先生もいいけど、思わぬところで遭遇したカカシ先生と語らいたいとは思わないのー?」
「別に」
「…あっそう」
そんなことを言いながら、報告書を提出しに行くことが億劫なだけであることは目に見えている。
そもそも、その報告するべく任務で先ほどまで一緒だったと言うのに、この期に及んで何を語らおうというのか。
しかし懲りずに、カカシはニコニコとサクラを見つめてくる。いっそ無視して持ってきた本を読み始めようかとも思ったが、これではろくに集中も出来ない。
「ところでサクラ、オレのこと探しに来てくれたの」
「いいえ。読書しに来たんだけど、たまたま先客がいたみたいで。でもちょうど良かったわ。これでイルカ先生にひとつ貸しね」
「(人のいいあのひとを利用してるのはどっちだ)」
息巻くサクラに、カカシは苦笑した。
まぁカカシとてすっかりその人の良さに甘えているのだから、人のことは言えない。
「まさか先生がいるとは思わなかったけど」
「オレは知ってたけどね。サクラがよくここにいること」
「え?」
意味深な言葉を残して、そのくせ答えを聞かせてくれるつもりは結局ないのだ。
カカシはにっこりと笑って、のっそりとベンチから立ち上がった。
「しょーがないなぁ、そろそろイルカ先生を解放してあげよう」
そう言いながら、じゃあね〜とひらひらと手を振りながら去ろうとする背中。
サクラはその様子を眺めながら、まさか、と声を掛ける。
「…先生」
「ンー?」
「顔布、あてなくていいの?」
「!!??」
思わず勢いよく振り返り、サクラを見つめる。しまった。はたけカカシともあろうものが。
確認するように頬と口に手を当て確認するも、残念ながらそこにあるべき布は、首からだらりとぶら下がっている。
「えーと…!?」
「ちなみにわたしは触ってません」
「そうだろうね。ていうか触られて気付いてないなら、オレの上忍としてのプライドが…」
そうだ。さきほど不本意にハードカバーの背表紙とキスしたとき、しっかりと確認したではないか。
なのにどうして気付かなかったのか。
そういえばまどろんでいるとき、無意識のうちに顔布をあごまでずらしたよう、な…。
「今度からは油断しないでよね。素顔さらして大口開けて爆睡してるの見つけたとき、こっちが心臓止まりそうだったんだから。あんなのしょっちゅう見せられたらたまったもんじゃないわ」
「…えー、そんなにお好みでない?」
なにもそこまで言わなくても…とがっくりと肩を落としつつ、カカシは顔布を定位置へ戻す。
そういえば額当てはどうしたっけ、と一応手で触れて確認してみると、こちらは変わらず定位置、左目を隠すようなナナメ掛けのままで安心した。
「また無防備にさらしてたら、今度は予告なしにちゅーしてやるわ」
もう答えは返ってこないだろうと思っていたときの予想外の切り替えしに、カカシは目を丸くしてサクラを見た。
しかし当のサクラはすでに読書に没頭しており、表情を伺うのは難しい。
(やれやれ)
ここにベンチを置いたのは、誰の読書のためだったろう。
サクラがここにたびたび来ていることは、残った気配から知っていた。
本当なら気配を残さず立ち去るようにと指導するべきなのだが、今日のところは何も言わないでおこう。
でないとサクラの気配を辿って、この場所へまた来ることができなくなってしまうから。
(20060819)
ちなみにカカシてんていがわざわざ額当てもさわって確認したのは、寝ぼけてるし、ってことでごまかされてください。