家主のベッドを占領し、本棚に並べられていた興味深い文献を引っ張り出しては、静かに読んでいた。
 何冊目かの中盤に差し掛かったところで、同じ体勢を続けていたために腕がしびれてしまい、ページをめくるついでにごろんと寝返りをうつ。

 視界の端にとらえた家主は机に向かって、いつもの本を随分と真剣な顔つきで読み耽っていた。
 そこでようやく、この家に押しかけた本来の目的を思い出した。

「ねえ先生、どうしてしないの?」

 業を煮やして先生の部屋に乗り込んだものの、ふたりで何をするでもなく、別々に読書をし、ときどき言葉を交わして、あっという間に夕方になってしまった。せっかくの休日だったのに。
 だからストレートに疑問をぶつけてみれば、なにを、とひどく間抜けな顔で返される。

 お付き合い、のようなことをはじめて数週間経つ。これまでのわたしの奔放な生活を知っているのだったら、生娘でないことなど知っているだろうに、彼はいっこうにわたしの部屋にも上がろうとしない。

 それどころか、まるでこれまでと変わらなかった。
 なんとなく合間に顔を合わせて、他愛のない話をしたり、昼食を共にしたり、ときには時間を合わせて仕事終わりに夕飯を食べて、家まで送られて。じゃあね、また明日。
 とても紳士的なお付き合いだった。というよりも、先生と教え子の距離から、まるきり進展がないように思えてしまって。


 一方でわたしはあの日から、先生のことばかり考えてしまう。
 ことあるごとにそういえば先生は任務だったっけとか、何かを食べれば先生はこの味好きそうだなとか、何かおもしろいことがあれば次に会うときに先生に話したいことを溜め込んでたりして、まるでこれは。

(恋、してるみたい)

 お付き合いのようなことをしておきながら、おかしな順序になってしまったけれど。
 少なくともこれまで経験した何人かの男に対してそんなふうに思うことはなかったし、ましてや<先生>としての彼の顔しか知らないままに、急に男女の関係になんてなれるものかと戸惑っていたけれど、あまりにもあっさりと。ああ、そうだ、これは恋だ。認めてしまえば、とたんに恥ずかしくなる。

 だからこそ、少し、歯がゆいのだ。
 彼からすれば、わたしはやっぱり教え子の域を超えられない存在なのかと。
 思えばあの日さえ一度も、お互い好きですなんて言葉ひとつさえ、交わさなかった。
 ねえいまのこの関係って本当に。

「ちょっと女としての自信失うって言うか…、」
「…ふうん?」

 ぱたん、と本を閉じ、こちらへ向き直る。
 あまりおもしろくなさそうな顔をしていた。

「サクラの自信ってそんなことなの?」

 言葉の意味をしっかりとはわからなかったが、あまり快い感想はもたなかった。
 あんまりこの話題を長引かせたくないなと、もういいと呟いてもう一度寝返りを打つ。いや打とうとしたが、いつの間にかベッドの脇までやってきていた先生に、肩を押さえられ、動くことができなかった。

「サクラは俺にもそうされたかったわけ?」
「…先生?」
「そしたら俺も他の男たちと同じように、使い捨てにするつもりだった?」

 先生の声は、怒っているように強い口調だったのに、どこか悲しげな響きを滲ませていた。
 反論しようと開きかけた唇はそのまま、うまく言葉を作れなかった。

「俺のことも、そんなふうにしか思ってなかった?」

 そんなことが、あるはずがない。
 彼の醸すさびしさに戸惑ってしまったのも本当だったけれど、同じくらいには強い憤りを感じてしまった。純粋な恋心を否定されたようで。
 離して、と肩を掴んだままの先生の手を振り払い起き上がると、真正面から睨み付ける。

「だって!いつまで経ってもただの教え子だったときと変わらないじゃない!だからやっぱり先生は、迷子の手を引いてるくらいのつもりなんじゃないかって!こんなに、わたしばっかり、…」

 息が詰まる。
 告げようかどうしようか、ほんの一瞬悩んだけれど。

「…わたしばっかり先生のこと好きになって…、ばかみたい」

 吐き出してしまえば、あまりにもむなしいひとりよがりにしか思えなくなった。
 きっと、こんな想いをしたくないばかりに、あんな付き合い方をしてきたのだろう。傷付くのを恐れて、誰にも心を許すこともできず。
 
 そうだ、結局ひとりよがりだったのだ。
 大切だから傷つけないようとしていたのではない。自分が傷付くのがこわかっただけだ。
 ばかみたい。
 今頃そんなことに気がつくだなんて。

 いつの間にか、こんなにも臆病になってしまっていた。
 本当に得たいと思っていたものが手に入りかけたそのときに、とたんに怖くなって、また逃げ出したくなっている。
 だとしたら、深く傷付く前に。
 
 向かい合う先生を避けて、ベッドから下りようとした。
 瞬間、背中から抱きすくめられる。

「なにがばかみたいなの。嬉しいよ」

 耳朶に響く声。
 ああ、まただ。また勘違いしてしまいそうになる。
 こんなふうに抱きすくめられて、甘い言葉で誘い込んでおいて。

 でももう、引き返すには今しかない。
 抱きつきたいほどに心地よい体温を、自分から引き剥がしていく。

「…どうせ、ナルトから泣きつかれたんでしょ。それで教え子が荒んでいくのを見てられなかったのよね。先生優しいもんね」
「…あのねえ、サクラちゃんはもっと聡い子だと思ってたんだけど」

 はあ、とわざとらしいため息をついたかと思えば、抱きしめられる腕にそっと力が入るのを感じた。

「まあ、確かにあいつからも相談はされたよ。だから本当だったら、あいつの背中押してやるのが先生なんじゃない?」

 でも、そんな教え子の想いを伏せてまで、やってきたのは先生自ら。

 はっきりとした言葉を伝えてくることはなかったけれど、ナルトの好意は明らかだった。
 大切な仲間。苦楽を共にした、なんて簡単な言葉で片付けられないほどに、支えあってきた存在。
 彼の手をとる未来を、想像しなかったといったら嘘になる。でもそのたび、初恋の彼の背中が脳裏をかすめる。
 支えていきたい。ずるいかもしれないけれど、ふたりともを、同じくらいに想っていた。
  
 だから、自分から、離れていった。
 あのバランスが崩れる前に。

 先生はきっと、そんな浅はかなわたしの考えは看破していたのだろう。

「じゃあ、サスケくんを気にしたんだ?」
「…サクラ」

 もう逃げるのはやめろ、そう言われている気がした。
 でも、どんなに先生が「聡い子」と言ってくれても、確証を得られないまま信じて進んでいけるほど、もう強くないのだ。
 離してください、そう小さく告げて、なんとかこの腕から抜け出そうとした。
 
「大事な教え子が心配だからなんて理由だけで恋人ごっこできるほど、聖人君子じゃないよ、俺も」

 ぴたりと、動けなくなる。
 こんな切なげな声色で、欲しかった言葉をようやくくれるの?


 俺だってはねのけられたらこわいと思ってたんだよ
 だいぶ年下だし、元とは言っても教え子だし、いまだって部下には違いないし…
 いままでだって大事な存在だったからこそ、気安く踏み込めなかったわけだし
 いまみたいにこうやって抱きしめるのだって、けっこーな勇気いるんだよ、ねえ?
 
 なんて、ブツブツと続ける言い訳めいた言葉は、まったく男らしくないのに不思議と説得力があって。


「それでも、あいつらに任せるんじゃなくて、俺が、…って、思っちゃったんだよ」

 もしかしたら? そうかもしれない? そんな不安定さが、少しずつしっかりとした足場の上に、着地していく。
 それでももっときちんと確かめたくなって、腰に巻きついていた腕に、そっと手を重ねる。
 
「…ねえ先生、先生はわたしを…、ちゃんと女だと思ってる?」
「なにまだ言わせる気?」
「きちんと聞いてないもの、先生はわたしを、どうしたいの?」

 しっかりと腰を抱かれていた腕をほどかれる。面倒な女になっちゃったかな、そう思っていた矢先、腕を引かれて振り返らされる。
 見上げれば、先生と目が合う。まっすぐなまなざしが、あの日と重なる。

「幸せにしたい」

 息を呑んだ。真剣な男の表情に、釘付けになる。

「俺が、おまえを、幸せにしたいと思ったんだよ。ひとりの女として」

 つながれた手から、伝わってくる体温。
 先生の言葉と共に、からだじゅうへ、酸素のようにいきわたる。

「サクラのことを好きだから、大事にしたい。俺を、これまでの男と一緒にするな」

 じわり、視界が滲んでいく。気がついたときには、あっという間だった。
 再び先生の腕がわたしを抱き寄せた。
 ぽろぽろとこぼれだす涙が、先生の服にしみを作っていく。

「女の子泣かすなんてサイテーよっ…」
「そうだね、ごめんね」
「責任とって、泣き止むまでそばにいて」
「泣き止んでも、ずっとそばにいるよ」

 こうやって慈しみをもって抱きしめられるあたたかさを、はじめて知った。
 一度手にしてしまったらもう二度と、手離すことなどできないだろう。
 どれだけ身体を重ねても埋めることのできなかったさみしさは、すっかりと消えていた。

 胸がいっぱいになって泣きつづけるわたしの頭を、大きな手のひらが優しく撫でてくれる。
 子どものころから何度となく、わたしを安心させてくれた優しい手のひら。

 先生の胸に顔を埋める。伝わってくる心音。いつの間にか、先生と教え子の距離ではなくなっていた。
 いよいよ本当に、一歩踏み出せたのだ。
 少しだけ落ち着いて、思い返す。自分だって、想いをひとりきりであたためるばかりで、分かち合おうとしていなかった。
 だから。

「好きよ、大好きよ、カカシ先生」


(20140830)