本当は知っている。
 彼がわたしを好きだということ。
 わたしが一言言ってしまえば、この関係が変わること。

 だって、わたしは、彼が好きだから。



「七海ッ」

 いつもながら、どことなく切羽詰った様子の一鍬が駆け寄ってくる。
 その様子を子犬のように…と例えたいところだが、ただでさえ図体もでかく、かつ土木作業のアルバイトの帰りなのであろう、泥であちこち汚れた風貌では、でかい野良犬に他ならなかった。

(でも、のらちゃんでも飼い犬でも、わんこはかわいいもんね)

 妙な理屈で自分の高鳴る胸をごまかしつつ、にっこりとお得意のアイドルスマイルでお出迎え。
 それだけで耳まで真っ赤にして、果てには直視できないといった様子で目をそらす。そのしぐさはなんとも、

(かわいい…)

 それこそかわいいわんこに向けるような慈愛の心で見つめてしまっているのに気づいて、はっとする。
 違う違う。それは違う。


「ちょうど今上がったところなのだ。これから商店街で夕飯の買い物をしてから帰るのだが…、も、もしよかったら…」
「夕飯、今日は何にするの?」
「あ、ああ、以前七海に教えてもらったかれーらいすをだな…」

 七海の教えたカレーは実際とんでもなく間違っていて(もちろん七海自身としてはオリジナリティを出そうとしただけなのだが)、その後に吼太が作る正しくおいしいカレーを何度も食しても、それでも一鍬にとってのカレーは、七海の作ったチョコレートやらキャンディやらが混合されたカレーのようである。嬉しいような、せつないような。複雑な気持ちであった。

「そうなんだ、頑張って作ればきっと一甲も喜ぶよ」

 一鍬の話を一方的にぶったぎる。
 なぜならわたしは知っているから。このあとにくるであろう言葉が何であるかを。

 行き場を無くした覚悟をどこに持って行けばと困惑する一鍬に笑いかけてやれば、また照れながら笑みを返してくる。
 こうしていつだってうやむやにしてきた。

 なぜならわたしは知っているから。
 わたしが応えれば、この関係は変わることを。

 だって、わたしも、彼が好きだから。


 叶う恋を叶えようとしないのは、単純な理由だった。
 きっと、まだ早い…のだと思う。

(笑いかけただけでこんなに真っ赤になられてもねー)

 こうして時間をかけて、いつか自然になれたらいい、と七海は思う。
 いつかでいいのだ、今でなくても。
 …いつかで。


「あ、ああ…」

 そしてやっぱりいつものようにどうしようもなくなった一鍬は、少しさびしげに目を伏せる。
 それを見てわたしはまたにっこりと笑う。バイバイ、またね。それでおしまい。

 でもなぜだろう。
 いつも見ているはずのさびしげな目が、わたしに笑顔を作らせないでいる。

「ねえ一鍬、もしよかったら…」

 このあと、ふたりで。
 言いかけて、はっとした。まるで無意識だった。

 不思議そうに見つめ返してくる瞳。駆け引きなどせず、いつだって直球を投げてきていた。
 胸の高鳴りをわんこ云々などで片付けてしまったせいだろうか。今日はやたらと一鍬がかわいらしいわんこに見えてしまう。首をかしげるようなしぐさに反応してしまったのは、母性本能?
 …きっと違う。心ではわんこなどと認識していないことなど、気づいている。


 わたしは本当は知っている。
 この余裕が虚勢であること。
 覚悟が出来ていないのは、本当はわたしのほう。 

 この一歩を、踏み出すのは今―――?


(061014初出/5周年記念企画)