がたんごとん
平日の昼間、そこそこ混雑する車内。
談笑するクラスメイトを横目に、ぼんやりと視線を上げた先に、路線図。
知っている地名をなぞる。東京、池袋、新宿…黄色い線。代々木、千駄ヶ谷、信濃町、四谷、市ヶ谷。
市ヶ谷。
(…棋院の側やん)
進藤や塔矢がいるかもしれない。
真っ先にそんなことを考えた自分は本当に碁バカだと思う。
でも本当に、誰かしら会えるかもしれない。そんなことを思う、路線図を見ていると。
目指す浅草へは、秋葉原で乗り換える。黄色い線に。
(進藤、塔矢、越智、和谷―――…、みんな元気にやっとんのやろか)
取り残された気がした。
同じプロという立場だったが、かたや碁の道だけに邁進するものたち、かたや…。
高校卒業が条件だったが、もちろんそれだけではだめだ。碁でも学業でも、きっちりと成績を残さなければ、到底両親を納得させることなどできようもなかった。ただ反抗して家を飛び出すだけではだめなのだ。
今回東京へ来たのは。修学旅行のため。なんだか子供っぽい響きに泣けてくる。楽しくないわけではない、のだが。今ここで碁のことさえ思い出さなければ。市ヶ谷の文字さえ見なければ。同世代のプロ仲間たちの顔を思い浮かべなければ。
高校生の自分と、プロ棋士としての自分。とても不安定な足場に立たされているのがわかる。気持ちの上で。
だが、本当に、何かの偶然で会えたら。
(…打ちたいな)
しかし電車を降りて実際に出会ったのは、ある意味もっと意外な相手だった。
「あ」
「あ」
北斗杯の前後、陣中見舞いだの打ち上げだのと盛り上がった席で出会ったひとり、―――奈瀬だ。
本当に、何かのドラマのような。大勢の人で溢れる秋葉原駅。その乗り換えの途中。
声のした方向はすぐにはわからなかったのに、顔を上げたら一発で見つけた。どこか印象的だった。
「社くん!」
「おお、久しぶりやな」
嬉々として近寄ってくる奈瀬に、思わず社の口元も緩む。
誰であれ、こんな広い町で再会できることは単純に奇跡的で嬉しかった。
「うそ、東京来てたの! こんなとこで会えるなんてびっくりした」
「いや、おれ、は…」
はっとした。視線の嵐、注目の的。
好奇の目に晒されているのは明らかだった。何かを、期待されている。
冗談じゃない。
「…集合、18時やったな」
「なんやおまえ、フケるんか」
「時間までには戻る!」
そう言ってクラスメイトたちに背を向けた速度と言ったら。
何も説明はしなかったが、奈瀬が察して後ろをついてきてくれたことが救いだった。
「きよはるー、」
「なんやねん!」
「きばってこいや!」
「違うわボケェ!」
まだ少し興味深そうに振り返る奈瀬の背中をそっと押しながら。
ああ、おそらく格好のネタにされていることだろう。自分が女と親しげに話して、なおかつ東京の女とだなんて。
あとでどれだけの追及が待っているのだろうと思うと恐ろしかったが、奈瀬にまで頭の悪い質疑が及ぶよりは、幾分かましだった。
「盛大に勘違いされてる気がするけど」
「ええねん。弁解はあとでするわ。それよりあんた時間は?」
「うん、ちょうど用事済ませてきたとこ。なんなら付き合ったげる。こっちひとりで歩き回るの不安でしょ」
願ってもなかった。
そやったら、と先ほどの路線図を思い返す。
「日本棋院、近くやったよな。1局打たせてもらえへんやろか」
「来客用に打てる場所もあるし、なんなら近くの碁会所連れてってもいいけど…けどいいの?東京見物」
「そんなことより、せっかく来たんやから 会えるなら進藤や塔矢たちとも、」
「(碁バカさん…)でも進藤や塔矢がそううまくつかまるとは…」
「…そうか」
不意をつかれた。だが少し考えればそれは当然のことで。向こうはプロ棋士としてのみの生活。棋院どころか、今東京にいるかすらわからないというのに。
急に冷静になった社に、それに、と奈瀬は続けた。
「おとーさんやおかーさんにお土産はいいの?抜け出して碁打ってたなんて言ったらそれこそ怒りそう」
「…知ってたんか」
「進藤から聞いた。大変だね」
まぁな、とつぶやくと急に暗くなった。
壁に頼り切っていた背中が、するするとすべり落ちる。
「そんなこの世の終わりみたいな顔しないで」
「…終わったわー…。少なくともここ30分くらいの俺の興奮世界は終わったわー…」
なによそれ、と奈瀬も社に並んで壁に背をつける。
休むまもなく電車が行き交い、そのたびにたくさんの人があちこちへ消える。
こんな場所で、当然のように会えるだろうと確信していたのか、自分は。
「本当に碁ばっかりだね」
「ほんまやな。あほやな。あー…。あいつらがここにいないかもなんて、言われるまで全然思いもしなかったわ」
奈瀬はなんとなく、猪突猛進なんていう言葉を思い出した。
自分が碁に対していい加減な気持ちであったとは決して思わない。が、周りの男の子たちの気迫を感じて、引け目や負い目を感じたのもまた事実だった。社に対しても。
その貪欲な様が、羨ましかったし、悔しかった。ただ。
「だけどどうする?いつまでもこんなとこにいても仕方ないし。とりあえず出て碁会所探す?」
「んー…」
くしゃくしゃと頭を掻き、唇を尖らせる様は、まるで16歳の少年だった。
「土産選ぶの、手伝ってくれへん?」
クラスメイトたちに続いて、浅草へ向かうことにした。
結局、本日の行程をなぞる形となった。
道中、午前中に一瞬だけ見た上野動物園のパンダの目がこわいと話していた社が微笑ましかった。
動物園なんて!とタカをくくっていたが、思いのほか楽しかったらしく、1日フルで使って見るべきだと熱弁していた。
こうしていれば普通に高校生の男の子なのに。はたから見て、プロ棋士との二束のわらじをはいているなど、誰が気づこうか。
JR浅草橋駅から浅草寺まで、実は微妙な距離であるとはふたりとも知らなかった。
おかげで迷うように歩いてたどり着いた雷門。通りすがりの人に頼んで、ツーショットでベタに記念撮影。帰りは地下鉄に乗ろうと顔を見合わせた。
「外国人いっぱいいるねー。てゆか、人多いね」
平日の昼間なのに、と奈瀬がつぶやく。
「あれ?そういえばアンタ、平日の昼間っから何しとんねん」
「じょしだいせいは時間に多少の自由が効くんですー」
「いいご身分やなー」
片眉を吊り上げながら隣を歩く社はつぶやくが、それよりも奈瀬自身が身にしみてそう思っていた。
そういえば一体どういう2人組に見えるのだろうか。修学旅行生風の制服姿の高校生と、ラフな私服姿の女子大生。先ほどシャッターを頼んだ観光客らしき中年男性には、どう映ったのだろう。まさか生徒と引率者だなんてことはないと思うが。
「同じ学校の子、会っちゃいそうだね」
思ったよりもここは狭い場所だった。
賑やかな仲見世通りはすんなりと抜けられない。
混雑で、というばかりが理由ではなかった。いちいち目に付く店が多いのだ。
呼び込みの声と醤油のいい香りにつられてふらりと引き寄せられると、焼きたての煎餅をふたりで半分ずついただいてしまったり、目を引く紅色の番傘をいたずらに開いてみたり、突拍子もない文字が書かれたTシャツに笑ったり。
「なんかこう、いかにも!みたいなのがええんよ」
「やっぱり食べるものがいいかな。ベタなこと言うと人形焼か雷おこしとか…あ、あたし揚げまんじゅう食べたい」
ふと、目に入った揚げまんじゅうの文字に奈瀬が足を止める。
耳にしたことはあった。だが食べたことはない。奈瀬が食べると言うのなら、という付き合い程度に。
かばんを探ろうとする奈瀬を制して、
「付き合ってもろたんやからこれくらい、」
「ほんと?年下におごられるのもなかなかないから、甘えてみる。ありがと」
奈瀬の笑顔に少し照れながら、制服のポケットから財布を取り出す。そこで気づく。
これって、完全に、普通の、デート、では、ない、か…。
意識すると、急激に体温が上がった。
「あっつ」
観光客慣れしていそうなおばさんが手渡してくれた饅頭の包みのひとつを奈瀬に手渡す。
触れている指が熱くてたまらない。
そもそもなんで饅頭を揚げようと思ったんだろう。そんなことをつぶやくと、ちょっと古くなって硬くなってしまったまんじゅうを、美味しく食べるためだよと店のおばさんが教えてくれた。
へー、なんて感心して聞いていると、湯気を吐き出しながらおいしーと言う声が聞こえた。
そんな姿をふと、第三者的な目で眺めていたら、隣に自分がいることにひどく違和感を覚えた。
「…なぁ、ええんか?」
「何が?」
「俺と…、一緒にいるとこ見られたらまずい男とか、おらんの?」
「はぁー?なーにそれ」
たぶん、だけれど。もしかしたら、知り合いと言うちょっとした贔屓目なのかもしれないけれど。
この、のんきに揚げまんじゅうを食べる隣の女は、部類で言うとわりとレベルの高いほうに位置するのではないかと思う。少なくとも顔は。
いかんせん自分が積極的に女子と触れ合う機会をもたなかったために基準を取りづらいのだが、今日の去り際のクラスメイトたちの表情を見る限り、その見立ては間違っていない気がした。
つまりは、こんなところで自分とデートまがいのことをしていていいのかどうか、懸念を抱いた。
「そんなこと気にしなくていーの。ていうか、そっちこそ良かったの?ものすごく勘違いされてたみたいだったけど。フォローしなきゃいけない女の子いるんじゃないの?」
「おらんよ、そんな」
「またまた、ここ東京だし。大阪まで届きやしないから言っちゃいなさいよ」
「おーらーんーて。それこそ嘘なんかついたってしゃーないやろ」
散々、散々だ。あれほど醜態をさらしたと言うのに、まだ言うか。
しつこいなとむっとすると、奈瀬が腑に落ちないといった表情をしたのが逆に腑に落ちなかった。
「意外だなぁ、顔は悪くないのに」
「あぁん?」
「社くんて、かわいいとか言われたらむかってくるタイプでしょう」
こないだもちょっと怒ってたよね、ごめんね。でもつい思ったことぽろっと出ちゃって。
そんなことを言いながら、奈瀬は揚げまんじゅうを食べきっていた。
確かにあまり嬉しくはない、が。初対面でかわいいを連発されたことも確かにあまりおもしろくは思っていなかったが。
だが今はさらりと流せてしまっているというところが実際だった。
「せっかくの東京見学があたしとふたりになっちゃってごめんね?」
「いや、こっちが勝手に引き止めて頼んだんやし」
「進藤たちと会えてたら、きっと本当に碁ばかさんぶりを発揮してたんだろうけど、」
揚げまんじゅうのせいでちょっと脂ぎってしまった指を、駅前で配っていたポケットティッシュで拭きながら。
「でも楽しいよ、あたし」
そんなふうに笑顔で言う奈瀬に、うっかり俺も、だなんて言いそうになってあわてて口をつぐんだけれども。
どうにも調子が悪い。いやいいのか悪いのか。狂いっぱなしだ。狂わされっぱなしだ。
集合は、昨晩泊まった浜松町のホテルに18時。
浅草からは約束どおり地下鉄に乗り込み、JR線へと乗り換える。
今日は駅で出会ってから、途切れることなくずっとしゃべりっぱなしだったと言うのに、ここにきてぽつりぽつりと会話が途絶え始めた。
だが不思議と居心地の悪さはなかった。
結局浜松町の改札まで見送ってもらった。
別にひとりで来れないわけでは(たぶん)なかったが、なんとなくついていこうかなーと気軽に言う奈瀬を特に拒んだりもしなかったのだ。
「ありがとうな」
「またね」
半日じっくり過ごしたわりには、やけにシンプルな別れの言葉。
だけれど「また」という言葉が、やけにしっくりとなじんで聴こえた。
奈瀬の言葉に右手を高く上げて背を向けると、あとはすでにホテルで待っているであろう目撃者たちに向けた、言い訳づくりという作業を思い出し、少しだけ頭が痛くなった。
(20090312up)