そういえばこの部屋でふたりきりになるのははじめてだった。
今日、ダンボールをもらってきた。少ない荷物をまとめるためだ。
引越しを決めたのは、今年の冬の寒波で、あまりにも隙間風が我慢できなくなってしまったからだった。
以前からぼろくさいし交通の便がないなど不満はいくつもあったけれど、住めば都…とまでは言わないが、慣れというものは怖いものである。
それよりも新たな住居を探すのが億劫だったし、引越しによって今行われている棋士仲間との勉強会が滞るのも嫌だった。
それでもそれをおしてでもやはり我慢の限界だった。
ようやく作業に取り掛かろうと、ダンボールの組み立てに使うガムテープを探し始めたとき。
コンコン、と乾いたノック音。
基本的に家にいるときは鍵を閉めていない。少なくとも勉強会参加者はそれを知っていたから、おそらくその他の人物。
セールスか?と重い腰を上げる。2、3歩けば辿り着くドアノブに手をかけ、やたらゆっくりと扉を引く。
「よ」
「…おお、」
意外な人物に驚きが勝って、たいした反応も返せなかったことが悔しい。
「差し入れ持ってきた」
ああ、そういえば、家に来るときには何か差し入れをなんてルールを、こちらに越してきてから制定したんだっけ。
結局毎日のように人の出入りがあり、そのルールもいつしかうやむやになっていたのだけれど。
カサカサと手に持っていたビニール袋を顔の位置まで上げた奈瀬は、だからお茶くらい出しなさいよと、昔のままの軽口を叩いた。
そこにいるのは、なんというか、知らない人のようだった。
出会った頃は互いに中学生。子供だ。身の回りにいる女の子の中ではかわいいなと思ったことはあったけれど、それ以上の感情を抱くまでには至らなかったというのが本音だ。実際奈瀬と過ごした時間は、なにより碁に夢中だったということもあって。
だがこうしてお互いプロ棋士になって、大人になって、改めて面と向かってみると、落ち着かないのはなぜなのだろう。
会う回数はめっきり減ってしまったが、昔馴染みだし、その点気も合い遠慮もなく接することはできるのだが、どこかざわつく。
自分が男になり、奈瀬が女になってしまったからだ。
院生時代に、膝丈のスカートなど履いていたことがあったろうか!ましてや落ち着いたベージュ色の。
化粧も服装も変わってしまった奈瀬は、やはりあの頃とは違って見えた。
冷蔵庫にかろうじて入っていた烏龍茶のペットボトルを取り出し、わずかに揃っているコップにそれを注ぐ。
「和谷は甘いもの好きだから、自分が食べたいもの買ってくればいいんだもんね」
そう言いながら奈瀬が取り出したのは、よく雑誌やテレビなどで取り上げられる有名店の瓶入りプリン。
取り立てて甘党というわけではなかったが、そこそこ甘いものを食べる和谷も、何度か目にしたことはある程度の。
「おお! ここの食いたいと思ってたんだよ!」
でしょー、とどこか得意げに、烏龍茶が注がれたコップを受け取る。
プリンはやはり、期待通りに美味しかった。
「…で?」
ゴトン、と思いのほか重厚な音をさせながら、安物の小さなテーブルに瓶を置く。
まだ食べきらない奈瀬は、なによと小さくつぶやいて、和谷を見やる。
「なんかあった?」
たぶんそう聞くのが、今日の自分の役目なのだと和谷は悟っていた。
奈瀬がこの部屋のドアをノックしたときから。
「セクハラに耐え切れなくてさぁ…。ちょっと愚痴りたくなって」
落ち着いた服装の意図は、やはり仕事絡みであった。
子供の先生に、と指導碁を依頼された家庭の祖父が、手を出してくるレベルでのセクハラを実行してくるとのことだ。
今まではそれでも笑って過ごしていたが、今日ふと子供が席を外したときに、ただならぬ恐怖を感じたのだと言う。幸い、何かが起こる前に子供が戻ってきて、何事もなかったとのことだったが。
「んなの、はっきりヤメロって言やいーじゃねーかよ」
「言えるわけないわよ! そりゃ、内心じゃこのクソジジイ!くらいのこと思ってるわよ、でも…」
甘んじてそれを受けることが仕事とは思わない。でも、引き受けた仕事を、ふいにすることもできなかった。
リーグ戦で好成績を残せていないという負い目もあったし。
「それでなくても女流枠で上がってきたから、女だからどうこうっていうのは覚悟してた。わかってた、んだけど…」
はー、とこの世の終わりのような嘆息。
悔しいのは、言い返すほどの力を身につけられないでいる自分。女流枠でプロ入りというだけで、まるでラッキー当選のような扱いを受ける。それでもいいからとこの世界へ足を踏み入れたのは、自分。
若くてかわいい、みたいな優遇を受ける一方では、それなりの苦渋を嘗めてここまでやってきたのだ。
ちやほやされて、手合いで負けて、それでも女だからいいよななんて嫌味は、もう聞き飽きた。
「…ごめんね。なんか気心知れた仲間に会いたくなっちゃって。みんな家出たり引っ越したりで、居所わかんないし。わざわざ連絡取ってまで外で会うって気分でもなくて」
もし和谷がいなければ、ひとりでまた家に帰って、おいしいプリンを食べていたのだ。
「ずるいね、嫌になったら逃げ込んできて。ごめんね」
やっぱり奈瀬は変わってしまった。
女であり社会人であり、ずいぶんと気弱になってしまったように思えた。
「なぁ、俺、引っ越すよ。場所も日程もまだ決めてないけど。もう隙間風に耐えられなくて」
「…そうなの?」
「おまえ、良かったな。まだここに俺がいて。連絡もなしに部屋ノックして、どっかの知らねー男が出たらどうするつもりだったんだよ」
ばかだなぁ。冗談のつもりで、軽く口にしたのに。
「ほんと、ばかだね」
奈瀬は笑っていたけど、泣き顔のように見えた。
その姿に、今日この部屋に足を踏み入れた瞬間とは違う想いが、和谷を巡る。
「…でも、引っ越しても、ちゃんとおまえには連絡するから。いつだって、嫌なことあったら話しくらい聞いてやるから、」
だから。
泣き出しそうな奈瀬を正面から見つめて。
「そんな顔、すんな。いちいち謝んな。…なんか、調子狂う」
院生時代のように。お互いバカなこと言い合って笑って。
そんな時間ばかり過ごしてきたから、やはり奈瀬とはばかみたいに笑っていたい。
少しだけ驚いた顔をしてから、それでもあの頃は楽しかったね、と奈瀬が感慨深げにつぶやいたのをきっかけに、ぽろぽろとこぼれだす当時の思い出話。
院生を離れてから、一体何度同じ話をしただろう。そう思いながらも、毎回同じエピソードの、同じタイミングで吹き出す。
ふと、そんな思い出話の切れ間に。
「…あたしあのころ和谷のこと好きだったのにさぁ…」
今度は驚いた顔をするのは和谷の番だった。
「…おいおいおいおい」
「あはは、わかってるよ。あの頃の和谷、プロ入りすることしか考えてなかったもんね」
聡いわけではなかったが、そこまで自分が鈍感とも思っていなかった。そんな和谷からしてみれば、寝耳に水の告白。
だって一度だってそんなそぶり、見せたことなどなかったのに。いつだって奈瀬は、みんなと対等だった。
「和谷は、優しいから。あのころも、今も」
だからつい甘えちゃうんだよね。
そう言って、奈瀬はコップの烏龍茶を飲み干した。
「…今は?」
「ん?」
一般論。
さほど気にしたことがない異性でも、告白を受けると気になってしまう。あとはそれが恋になるかどうかは。
なんていう、かわいらしい話ではなくて。
今日、奈瀬がこの部屋をノックして、膝丈のスカートと落ち着いたメイクの大人びた姿で、自分の部屋でふたりきりでいるということが。
とんでもなく和谷の心をざわつかせて、とにかく今向かい合っているのが、昔馴染みとかそういうことではなく、とある女であるということしか意識させないような。
単純に、今目の前に自分の好きなタイプの、きれいな女がいたら、ちょっとお近づきになってみたいという、そんな年頃の男の興味が爆発するのを、実はずっと恐れていて。
でもそれが、起こってしまったのだ。そのひとことで。
「ごめん、俺」
そんな言葉を言うのがやっとで、しがみつくように奈瀬に口付けた。
(20090310)
そのチッスひとつで今日のすべてが台無しだよ、和谷きゅん!w