目線の先に、一台のタクシーが停まる。降りてきた二人のうち、髪の長い女がひとり。
見知った珍しい顔に、思わず大きく声が出た。
「奈瀬!」
肩から大荷物を下げた、黒いスーツ姿の奈瀬。
荷物ごと大きく振り返ったその視線が、すぐさま声の主を捉えてくれた。ああ和谷、とまるでつい昨日会ったみたいに気軽に応えて。
「久しぶり、ね」
「ほんとだな。いつぶりだ?」
お互いの戦績や日程は、会っていなくても伝わるけれど。それはそのほかの棋士仲間たちと同じように。
それにしても最後に会った時の記憶が定かではない。奈瀬がプロ入りしてから会ってない…わけはない。祝賀会と称して明け方4時までつき合わされたのだ。その日指導碁の仕事が入っていたと言うのに。
「今日は何?」
「解説と指導碁。ほら、明日美ちゃんかわいいから引っ張りだこ」
「それ、自分で言うこっちゃねーだろ」
コノヤロウと小突くと、テヘ☆とふざけた笑い方をひとつ。腹は立つのだが、実際かわいいからの一言に反抗できないのが痛い点である。
「…けど実際お前ほんとよく見るな」
こないだもNHKで観たぞ、呆れ気味にこぼす。それこそ『かわいいから」ではないが、テレビや雑誌と言ったメディア等の露出は、かなり偏って多い気がする。
広告塔か??と言うのは、スポーツ新聞のインタビューを見ての和谷の感想である。
「まー正直なこと言うと、リーグ戦で早いうちに負けちゃうからスカスカなのよね」
完成された笑顔はどこへやら。すっかり油断して眉をひそめた。
リーグ戦などの場合、早くに負けた棋士が解説を務めることになる。確かにあまり成績の芳しくない奈瀬が、担当することが多いのはわかるのだが。
「じゃあ今度お前も土曜の研究会来いよ。不定期だけど、未だにみんな結構集まるんだぜ」
「じゃあってなにそれ、ついでなわけ?」
「だってそうだろ。最近じゃお前の知らない奴とかも増えてっけど、気にするようなタマじゃねーもんな」
「あのね、」
口をついて出るのは小言ばかり。でもその乱雑な扱いすら、時間を越えてあの頃を思い出させるようで。
プロになってから、交友関係もだいぶ広がったけれど、しかし気を遣わずに同じ目線で接することのできる仲間となると、やはり同じ釜の飯を食った感覚の、院生時代の仲間が多くなる。
「…だけど、なんかいいね。そうやって変わらないのって」
「うん?」
「相変わらずやってるんだ?あのボロアパートで」
「ボロは余計だ。くそ、そのうち引っ越してやる」
感慨に浸ったように、次の言葉を吐き出しかけたときだった。
遠くから、雑踏にまぎれそうになりながら、奈瀬を呼ぶ声が聞こえた。一緒にタクシーを降りた棋士だった。解説を担当する手合いの前の打ち合わせの時間が迫っているようだった。
「そろそろ行かなきゃな」
「うん…、じゃあ今度顔出す。久々にみんなとも会いたいし」
「おう。携帯変わってないよな? 次決まったら連絡する」
なんだか名残惜しいものを感じながら、片手を挙げて走っていく奈瀬を見送る。
振り返りもしないのか。いや、そんなことを期待していたわけではないのに。
「あれ、知り合い?」
「知り合いも何も」
そっと隣にやってきた伊角に、一瞬奈瀬と告げるのをためらった自分に少し驚きながら。
ああそういえば。自分が先にプロに飛び出したとき、閉じ込めた想いがあったっけ―――。
5月。大型連休の中日にぽっかり休みができた。朝から起きて珍しく多少の家事を済ませ、最近ご無沙汰だった研究会の計画を立てはじめる。今回はどれだけ集まれるだろうか。
そして何より、先日久しぶりに顔を合わせた奈瀬を呼び込める大義名分。認めるのはしゃくだが、男ばかりの会に華をもたせられる。
5月。そう言えば5月といえば。
「和谷?」
「おう」
着信に気付き携帯電話のディスプレイを確かめると、先日久しぶりに顔を合わせた昔なじみ。
ためらわず電話を取ると、やはり肩を並べていたころと同じ反応。
「ほんとに連絡くれたんだ」
「そんなつまんねー嘘ついてどうすんだよ」
「いやいや。それで?いつになったの?」
思わず、つばを飲み込んだ。緊張に似た気持ちが走る。
「あー…。10日、空いてないか?」
「あれ? 研究会って土曜じゃなかったっけ」
「じゃなくて…」
ためらう。今さらながらなかなか勇気は必要で。
「誕生日だろ」
「うん?」
「おまえ」
たっぷりと間が空いた。電話が切れてしまったのではないかと疑った頃、ようやく言葉が返ってきた。
「…びっくりした」
「何に」
「あんたが知ってたことと覚えてたこととそんなこと言い出したこと」
「全部かよ」
5年前。目標は同じでも、違う道を進み始めたあのとき。
しかし再び同じ道を歩み始めた今。あのとき閉じ込めようとしていた想いは、もうおとなしく待っていてはくれないらしい。
(20060510)
調べるのめんどくさかったので、年数とかたぶん違うと思う。
そして何より、よりヘタクソになったなぁ…!!
なんていうか、何もかも。