「あー…、奈瀬ちゃん? かわいいと思うよ、え、ていうかかわいいんじゃない? 少なくとも俺の知ってる女の子の中ではかなり当たりのほうかと」
たとえばそれが和谷とか進藤とかだったりしたらもう真っ先に顔面にケリを入れて、人を当たりつきくじみたいに言うなと文句も言えたと思うのだけれど。
でも実際のところ朝起きて思い出してなんだか涙出てくるくらい好きな人で、ほとんど叶うはずないよネなんて諦めかけてた(と言うより諦めよう諦めようと努めていた)恋の相手にそんなこと言われたら。
そりゃあ壁一枚隔てたところで、腰も砕けて立ち上がれませんよって、話。
そんなあたしの可愛らしい恋愛を、彼は、こうして、笑うのだ。
笑っているのだ、ずっと、ずっと。
「…っく、だって、ごめん…可笑しくて…」
「可笑しくてじゃないわよー、なによもう、しょーがないじゃない嬉しかったんだからっ」
しかし怒っても怒っても伊角から笑い声が漏れてくるのが止まらない。
そもそもちゃんとあたしは怒れているのだろうかと奈瀬には自信がなかった。なにせ嬉しくって、どうしたって頬が緩んでしまうのを自分でも止められないでいるからだ。
「まぁ、和谷とか進藤とか? あっちのほうには散々なこと言われてたみたいだけど」
「あはは、」
伊角は手持ちのウーロン茶を少しだけ口に含んだ。なんだかすっかりぬるくなってしまったが、特に気にならなかった。むしろ、そんなに長い間奈瀬と話していたのだろうかと改めて思った。
今日は和谷の部屋での勉強会の日。奈瀬は特に呼ばれているわけではなかったが、陣中見舞いを装いそれを邪魔しに行くのが日課だった。
と言うか、標的はただひとりだけで、なかなかお近づきになれない憧れの人とのほんの少しの接点を、大事に大事にしていきたかったからというだけなのだが。
現に奈瀬の奇襲率は、冴木出席率と激しくリンクしている。
先乗りしていた伊角は、いつもならそろそろ奈瀬が来る時間だろうとぼんやり思っていたのだが、結局自分の用事があるので勉強会を早退してきた。
そこで、ドアのとなりでうずくまる奈瀬を発見したのだった。
「…な、せ? お前なにやって…」
「(しー、)」
「(しー、って)」
いいからいいからとドアを閉められ、手を差し出された。
それを何かと理解するのはなかなか難解ではあったが、不機嫌そうな奈瀬の顔を見ているうちああ、と判断し、その手を引いて立ち上がらせた。
それから何故だか奈瀬に手を引かれたまま連れ回され、こうして夜中の公園でウーロン茶会を開催中なわけで。
(そういや俺用事あったんだっけ)
しかし顔を真っ赤にしてうずくまる奈瀬を見たときから、なにかしらあったんだろうなという予感はあった。昔馴染みの院生仲間だったし、伊角くん伊角くんと真っ先になついてきてくれた彼女は妹のようなもので、昔から色々な相談事は聞かされてきたし、力になれるのならなってやりたいとも思っている。
だから勿論と言うか、何があったのかどうしたのか、自分からも話は聞いてやるつもりだったのだが。
まさか口を挟む隙も与えずべらべらべらべらしゃべりだして、あげくの果てには嬉しくて腰が砕けて動けなかったなどと聞かされては。
もう笑うしかないじゃないかと、伊角はなおも笑いながら反論する。
「…んでさ、あたし前後は聞いてなかったんだけど、何がキッカケであたしの話が出たわけ?」
さもすればちょっとしたことですぐ顔が赤くなってしまう奈瀬が、ウーロン茶を一口飲んで、無理やり気分を落ち着かせた。
「進藤の彼女がかわいいって話」
「進藤に彼女!? ちょっとなに、あいつ抜け目ないわねー、」
「本人は激しく否定してたよ、ただの幼馴染だって。まぁ和谷曰くの話だからどっちにしろいまいち信用はしきれないけどさ」
発信源が和谷だとわかると、奈瀬のテンションの上がったのが、一気に下がるのが手に取るようにわかった。
そこまで信用されていないのか、と伊角は和谷を哀れにも思った。
「…それで? どういう流れであたしの名前が」
「和谷がね、『うちの奈瀬なんかさー、』」
「うちのだとかなんかだとかよくもいえたわねあのくそがき」
「(うわぁ…)だ、けど、そのおかげで冴木さんからあの発言が出たわけだし」
「…、」
なんだかんだ言って、やっぱりさっきからずっと奈瀬は笑いをこらえるのに必死だった。
顔がほてりだすのをウーロン茶の缶をあててとどめたりだとか、過剰にパタパタと手であおいでみたりだとか、おそらく隠そう隠そうとしているのだろうけどまるで露骨で。
なんだかそれがまたおかしくて、また伊角は笑いをぶり返す。
なによ、とギロリと睨まれたのでなんとかこらえたが、それでもやっぱり次の瞬間の奈瀬の顔が笑いをこらえ切れないのがわかりやすく出ていたから、伊角はどうしても笑う、以下繰り返しである。
「だけど冴木さんならではと言うか」
「どういう意味?」
笑いをこらえながらしゃべる伊角の腕を軽くひっぱたいて、奈瀬がことばの続きを促す。
「俺とか、絶対かわいいと思ってたっていえないよ、かわいいとかって」
「…思ってないんだ」
「ちがっ、」
「いいわよ別に、あたしが評価されたいのはあの人だけだもの」
とは言っても不満そうな明らかに顔で。
「(…)ほらさ、俺らと奈瀬じゃ近すぎるんだよな。可愛いだなんてストレートすぎて、照れが入って絶対言えない」
「ふぅん」
「なんだよそれ」
「別に、あ」
奈瀬の携帯が鳴った。相変わらずシブイ着信音だなと言うとなぜだか殴られた。
まったくいまどき銭形平次のテーマをギャグ抜きで着信音設定している女子大生なぞ間違いなく奈瀬ひとりであろうと思う。
「これだと恥ずかしいから急いで出る気になるでしょ」
「恥ずかしいんじゃん」
「最初は本気だったけど色々言われるようになったから恥ずかしくなったの、」
「…ていうか出ないの?」
「…冴木さんから…なんだけど」
急いで出なきゃならない、の理由がわかった気がした。
そういえばこのあいだ鳴っていた着信音は、今人気のアメリカの女性アーティストの曲だったっけか。あのときの電話の相手は確か、和谷。
しかしそうしてわざわざ振り分けた着信音も、今日はまったく意味をなしていない。
「どーしよー」
「どうしようって何よ」
「…だって」
「別に変に意識しなきゃいいだろ? 冴木さんはお前が聞いてたなんて知らないんだから」
「…」
「切れるぞ」
「、もしもし」
奈瀬が観念したように電話に出た。
ここが静かだからだろうか、そっと耳を済ませると、電話の向こうの声も小さく聞こえてくる。
別に聞き耳を立てる趣味はないが、今日はこれほど巻き込まれたのだからいいだろうと、伊角はかってに解釈した。
『奈瀬ちゃん今日来ないの?』
「…うーん、どうしようかな」
どうしようかな、なんだかそのせりふは冴木にと言うより伊角に向けて言われているようだった。
助けをくれと言う合図をえんえんされていたが、あえて伊角は助け舟を出さなかった。
『どうしようかな?なにちょっとそれ、こっち女の子いなくてむさくるしいんですけど』
『エー!! 奈瀬じゃ花になんねぇよ、むしろ猛獣が増え(むぐ』
「…今それ言ったの和谷?」
『平気、息の根止めといたから』
なんだか電話の向こうが騒がしい。それは伊角にもよく聞こえるくらいの声で、ギャーギャーギャーギャー騒いでいる。
和谷の、声変わりをしたわりに高い声がよく聞こえてくる。
『もし来る気あるなら迎えに行ってもいいけど』
「えっ、そ、れは平気! ううん、どうしよう、やっぱり行きます」
『ほんとに? けど夜暗いしやっぱり、』
「うんうん平気、今すごく近くにいるから…、」
『そーう? じゃあ気をつけてくるんだよ、ここらへん道暗いし』
「はぁーい。じゃあ、」
通話を終えて電話を切ってからしばらく、奈瀬は携帯の待受け画面を見つめてぼうっとしている。
「なんだよ、行くって言ったんだろ?」
「…なんて顔して会ったらいいのか」
ほてりもにやけ顔もすっかり消えて、奈瀬は沈みきっていた。
「だーかーら、いつもどおりいつもどーり」
「あたしっていつもどんなだった?」
「…奈瀬、」
「ううんいいの、そうよ、別にかわいいって言われただけだもんね、あたしをかわいいと思ったところでどうって話だもん」
突然、奈瀬は立ち上がって明るい口調になった。
女のこういう瞬間て逆に色々めんどくさいんだよと、以前どっかで情報を得た気がする。
ああ確かに、開き直ったときほどタチの悪いことはないと思った。
「なんでそんな悲観的に…」
「冴木さん、彼女と別れたって聞いた?」
「…あれ、どうだっけか」
「そうよそうそう、ね、かんけーないもんね、意識しない、しない方向で!」
残りのウーロン茶を一気に飲み干すと、公園を見渡し、ごめんねと言って空き缶を伊角に託す。
「ごめんね、ありがとう」
「奈瀬、あんまめんどうなこと考えるなよ」
「うん? …ゆっくり行くよ。そろそろ、いいよね」
手持ちのかばんをきゅっと握りなおして、和谷の家の方向を見る。
なんだかこういうときに言うべきことばが見つからなくて、伊角はぼんやり奈瀬を見つめていた。
それでも何か言わなきゃ、と
「奈瀬、」
「うん?」
「がんばれよ」
奈瀬はきれいに笑って手を振っていたが。
自分のがんばれの意味をどれくらい理解していたのだろうと、伊角は思わずため息をつく。
それともいっそ教えてやればよかったか。
かわいいと言った、冴木のことばのつづきを。
奈瀬がすっかり舞い上がってしまってろくに拾えていなかった冴木のことばを。
(あの人はちゃんと恋愛対象として見れるらしいぞ、お前のこと)
諦めるな、がんばれ。
心の中でこぶしを強く握って、とぼとぼと歩いていく背中に向けてささやかなエールを。
(2003/08/11)
やばっ、彼女がいる云々のフォローを入れる隙がないじゃんか。
わはははは。