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 彼はあたしの男性遍歴、つまりは今までの恋人リストと言うのをすべて把握している。
 と言うのもそれはすべてあたしが笑い話として面白おかしく話したバカ話だったわけだけれど。
 それを笑いながら聞いてくれた彼は、一体どんな気持ちだったのだろうと、今はなんだか胸が苦しくてしかたがない。




「そういえばさ、昔の話なんだけど」
 話の流れからすれば、冴木のふった話はとても普通のことだった。
 みんなで勉強会をしようと、何人かすぐに集まれるメンバーを和谷の家に連れ込んで、確かに勉強をしていたのは結局夕方まで。
 なぜだかおしゃべりのほうに花が咲いてしまって、結局買い込んでいたコンビニのお菓子をつまみつつ、とりとめもないことをぺちゃくちゃとしゃべりつづけていた。
 しかし男ばっかでなんだよなと誰かが言い出して、じゃあすぐつかまる奴呼ぶよと言った和谷が電話をかけた相手はやはり奈瀬で。
 仮にも年頃の女の子が、なんの躊躇いもなく男だらけの部屋に来れるのも、指名されるのもなんだよなぁという伊角のつぶやきもむなしく、やって来た奈瀬は来るなり張り切ってその場を仕切っていた。それまで話していた昨日のテレビがどうとか、あの芸能人はあいつと付き合ってるだとかといった冴えない話はいつしか、暴露大会になっていた。
 だからその流れで、冴木も言い出しただけのこと。
 みんなの話と同じように、笑って聞き流していればよかったのだが。
「昔まだ森下門下になったばっかりのころさ、先輩棋士たちに連れられて合コン行ったんだわ、」
「なんだよ冴木さん、冴木さんの合コン武勇伝なら聞いてるぜ、女の子みんな冴木さんのほうに集まってきてヒンシュク買うんだろ? だからもう冴木さんは呼ばないって」
「あはは、なんか浮かびますねそれ」
 いつもの自分なら。
 奈瀬にはここで言ったらいいというせりふと、そのビジョンがしっかり浮かんでいたのだが。
 なんだか口を開けたまま声は出ずに、結局タイミングを失ってしまった。
「なんとなーく話が合うと言うか、だからぼんやり付き合ってたんだけど、当時の俺、自慢じゃないけどふられたことなくって」
「むーかーつーくー!」
 和谷のように笑いながらふざけたい。
 なぜだか、だんだんと胸が苦しくなってきた。
 いつのまにか、冴木の顔を見れなくなっていた。
「付き合ってはいたものの、なんだかお互いいまいちのりきれてなかった部分はあったんだよね、だからいつ終わるかって思ってたんだけど」
「ど?」
「まさか、まさか向こうからよ、もうしばらく会えないなんて言われるとは思わなくてさ、もうそんときのショックったらなかったわけよ。すごい自棄になって。囲碁も散々だし師匠にもうるさく言われるしで」
「…冴木さんにもそんなことあったんだ…」
「そうよ? 俺はみんなよりおにーさんだからね、悪いけどいろんなこと経験してんのよ」
 隣に座っていた和谷の頭を二度ほどぱんぱんと叩くと、それこそ大人な顔つきで笑った。
 なんだかそれがとても遠くて、奈瀬はますます胸が締め付けられる思いでいっぱいになった。
「じゃあどうやって立ち直ったんですか?」
「そっりゃあ、恋の挫折に立ち直るのは新しい恋でしょう?」
 どきん、と。
 大きく心臓が一鳴りした。
 動揺、している。なんでこんなに。
 もう終わっている、しかも思い入れも少ないと言う、昔の恋人の話なのに。
 胸の締め付けはきつくなるばかりで、声にならない悲鳴が口の中でいくつも溶けていった。冴木の恋人、だなんて想像しただけでもなんだか…。

 ひとしきり冴木の話題で盛り上がったあと、ひとりがそういえばと奈瀬を見た。
「てゆうかさ、そろそろ奈瀬の番だよな」
「え」
 すっかり自分の世界で思い悩んでしまっていた奈瀬は、名前を呼ばれてやっと俯いたままだった顔を上げた。
「あはは、奈瀬ちゃんの話はもう聞きたくないよ」
「確かに! お前何かと昔話はじめるもんなぁ!もう聞き飽きたっつの!」
 あははと盛り上がるギャラリーをよそに、奈瀬はまた冴木の言葉をかみ締め、うつむいてしまった。
 皮肉なことに、そのときそれに気付いていたのは、ただひとりその冴木だった。




 それから話の矛先はずれていき、そろそろいい時間だし、外に夕飯でも食べに行こうと盛り上がったが、結局奈瀬はそれには混ざらず、帰途に着いた。
 冴木とおんなじ空気を吸っていると思うだけで、言いようのないせつなさが襲ってくる。
 じゃあねと手を振ったときも、冴木だけは意識的に見ないように気をつけていた。

 芝居はよくできていたんじゃないかと思う。誰にも何も聞かれなかった。
 よく笑っていたし、冴木の件以外ではいつもどおりのおしゃべりができていたんじゃないかと思う。
 ふと、自分がため息ばかりついていることに気付いた。
(…らしくないわよ)
 自分にいって聞かせるが、やはり気持ちは晴れない。
 どうしたって、冴木の声が頭に響いて、頭ではその昔の恋人のビジョンを創り出してしまう。
 いつだってきれいな人としか付き合わない。乗り気じゃなかったなんて言っても、結局あの人のことだ、抜け目なく美人を選んでいたのだろう。


「奈瀬ちゃん」
 うわ、と出かかったのをなんとか食い止めた。
 今一番聞きたくない声だ。
「…冴木さん」
「帰ってきちゃった」
 にっこりと笑う冴木とは反対に、奈瀬は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
 冴木は奈瀬のとなりに並んで、行こうかと促した。

「若者にはついていけなくてねぇ」
「なによ、いつもは俺をおっさん扱いするなとか言うくせに」
「それにね、奈瀬ちゃんも心配だったし。夜道を女の子ひとりで歩かせるわけにはいかないだろ?」
 適度な距離を空けて、ふたりは並んですっかり暗くなった道を歩いた。
「…あたしを言い訳にしないでよ」
 可愛くないこと言ってる、しかし考えるより先に口が動いてしまう。
 ごめんね、と、冴木がやわらかく微笑むのがわかって、よけいに悲しくなった。
 いつもだったらこんなシチュエイション、嬉しくて仕方がないはずなのに。
 明るく振舞おうと思っても、さっきまでできていた愛想笑いができなかった。
 失恋したみたいな胸の苦しさが、さっきよりもずっとずっと増している。

「奈瀬ちゃんさ、」
「なぁに?」
「元気なかったよね? どうしたの?」
 驚いて冴木のほうを見ると、やはりさっきと同じように笑っている。
「…別に」
「そうかな」
「(あなたの恋人遍歴聞いてたら辛くなっただなんていえませんよう)」
 どっか座ろうかと、近くのアパートの階段に座り込んだ。
 冴木に手を引かれて一段低い場所に座った奈瀬が、不満げに唇を尖らせる。
「言い訳じゃなくてね、」
 太腿の上で頬杖をついた冴木は、そんな奈瀬を見てなぜだか微笑ましく思った。
「奈瀬ちゃんが心配だったのは、ほんとう」
「ああそう」
「最初は元気だったのにだんだん元気なくなってくから」
 なーんてこった。
 うまくやり過ごしていたと思っていたが、一番気付かれたくない相手にはしっかり見破られていたらしい…。
 勿論、今日のことは誰に言うつもりもなかった。
 自分の中だけにとどめておくべきことだと思った。
 いまいちはっきりしないことで、迷惑をかけるのはかしこくないと思っていたから。
 …無言の時間が続いた。お互いしゃべろうともせず、たまにもぞもぞと動く、布のすれる音しか聞こえなかった。
 沈黙がつらいと思ったのは奈瀬のほうが強かったのかもしれない。
 できればこのままやり過ごしたかったが、まったく折れる気配のない冴木に業を煮やし、重い口を無理やり開いた。
「いやなのよね、」
「うん?」
「…冴木さんの昔の恋人の話」
 膝を抱え込んで、奈瀬が言った。
 ただでさえ小さな声がこもって余計に聞き取りづらかったが、それでもこの静かな夜道ではそう難しいことではなかった。
「おもしろくなかった?」
「ちっとも!」
「…それは申し訳なかったね」
「辛いのよ、なんだか、…なんていうか」
 言葉の続かない奈瀬の肩を冴木がぽんと叩くと、そのまま奈瀬は突っ伏してしまった。

「困らせたくないから言うつもりなかったんだけど」
 気のせいか、鼻声になった気がした。
「冴木さんのことが好きなんですけど、あたし」

 鼻を啜るのが聞こえた。やはり泣いていたのか。
「おもしろいわけないじゃんか、好きな人の過去とかって、やっぱ気になるけどしんどいよ。笑いながら聞いてられるもんじゃないもん」
「…そっか」
 一瞬躊躇ったが奈瀬の肩に再び手を置いた。
 それはなだめるような手つきで、奈瀬は余計に涙が出てた。
「けどね、」
 冴木の手が今度は奈瀬の頭を優しく撫でた。
 昔おかあさんによくしてもらったのと似ているな、とぼんやり思った。
「それは俺も一緒だよ」
 奈瀬がゆっくり顔を上げて、涙で濡れた顔を冴木に向けた。
 差し出すものが何もないことに気付いて、ごめんねと言って冴木は親指でそれを拭ってやった。
「奈瀬ちゃんの話聞きたくないって言ったろ、俺」
「…うん」
「俺もなんだよねー、どんなにおもしろおかしく話されても、いらいらすんの」
「…へぇ」
「俺も、過去は気になるけど、聞くとうあー、やっぱやめときゃよかった!って、思う、派」
「…ふぅん」
「(…言わなきゃわからんのか)」
「(しっかり聞いてやる)」
 しょうがないなぁ、と冴木は階段を一段下りた。
 狭い幅の階段で、肩を触れさせながら窮屈にふたりは並んで座った。
「…俺も好きよ、奈瀬ちゃん。君が」

 本当は待っていた答えだったくせに、やっぱり言葉で聞くと構えていたものよりはるかに強くて。
 あまりのことに奈瀬は、鼻を啜りながら冴木の胸にかなり激しく頭突きをかましていた。


(2003/08/08)