その日は学校を遅刻した。
基本的に根は真面目だから、遅刻欠席はあまりない(まったく、とは言い切れないけれど)。
でもその日はあまりにおなかと腰が痛くてつらくて、どうしてもいつも乗る電車に間に合わなかったのだ。
…それに学校では、なんだかひどく億劫な出来事ばかりだったし。
だけどその日の遅刻がなかったら、たぶん人生の転機にさえなり得る(少なくとも今は確実にそう思える)出来事は起こらなかったんじゃないかなぁ、とも思う。
あたしは皆勤賞なんて別にいらない。
「保健の市河晴美先生の産休のため、今日から代わって赴任することになった冴木光二先生です」
その人が壇上に上がった瞬間、女子生徒たちがいっせいにざわつきだした。
半分寝かかっていた和谷はそれではっと目を覚まし、ざわめきの原因を探した。
(…ほー)
どうやらあれだ、割とめんどくさそうに着任の挨拶を簡単に済ませ、さっさと壇上を降りてしまった背の高く色素の薄い男。
高校教師にしては珍しく若くいい男である、と同じ男ながら和谷も冷静に判断した。
(奈瀬とかいたら大騒ぎだろうなー…うっわ、幸か不幸か)
はしゃぎまくる奈瀬を想像すると、やたらおもしろくて思わず吹き出した。
となりにいた内田に冷ややかな目で見られ、変な咳をして誤魔化した。
(あー…死ぬ…)
この痛みさえなければ、もうなんべんでも生まれ変わって女をしたい。
奈瀬の生理痛はひどく重いもので、毎月の保健室の常連だった。
結局学校までダッシュで来たものの、来るなり保健室へ直行した。
事情を知っている保健室のいっちゃんは、気を利かせて教室に連絡を入れてくれるし、あっためた布団で寝かせてくれるので、奈瀬はそれでなくとも保健室が好きだった。
「せんせー、今月もお世話になりまーす」
「今月?なぁに、この学校の保健の先生は、女子生徒の排卵日まで把握しなくちゃいけないわけ?」
返ってきたのはいつもの優しい声ではなく、とても低音の…男の声?男?
きょろきょろとあたりを見渡すと、そこにはいっちゃんの姿はなく、かわりに背の高い細身の男。…男!
「えー、え!? は!? 意味がわからない、え、誰…?」
「ウーン?誰とか言われても困っちゃいますが、あなたはどなた?」
「え、え、え?? い、いっちゃんは…」
「あれ?君今日の朝会出なかったの?今日からこの部屋の主は変わったのです。さも当たり前のように排卵の報告に来られても…ねえ?」
ねぇ? じ ゃ ね ェ ー !
一瞬にして体温が5度くらい上昇した気がする、少なくとも耳まで真っ赤のはず。
何が悲しくて初対面の男に(しかもいい男に)、排卵日の報告なんぞしなければならないのだろう!
思わず立っていられなくなり、その場にしゃがみこんだ。
その一挙一動があまりにおかしくて、冴木はこらえきれずに笑った。
「…なんですか」
「ううん、ごめんね、実は市河センセイから話聞いてるんだ、生理痛がひどい子がいるからよろしくって」
「(いっちゃんそれもないんじゃないの!?)」
「奈瀬…明日美、さん?」
「はいそーですが」
「朝会出てないみたいなので一応ここで自己紹介。冴木光二でーす、ヨロシク」
でーす、なんて言いながらニッコリ笑って(営業スマイル!)、しゃがみこむ奈瀬の正面で膝をついて、握手の手を差し伸べた。
相変わらず体温は上がったままだったが、とりあえずその手を握っておいた。悔しいことに近くで見るともっといい男だった。
「先生には電話しとくからさ、どうする?薬は飲む?」
「場所わかるんで平気です…」
「あ、もしかして保健室登校?感心しないねー、不登校なんかにならないでよ」
「なりません! 薬もらいますよー」
「どうぞどうぞ、白湯あるから」
「…用意いいですね」
「ウーン、俺の飲みかけ」
「!!!!!(何のつもりよ!)」
奈瀬は勿論机の上に置いてあった湯飲みを断り、薬を口に含むと鏡の前に置いてある歯磨き用のコップで水を飲んだ。
「つれないね」
「先生、電話」
「おっと忘れてた、クラスは?」
「2−5です」
「フーン、17か…」
「…なんですか」
「ううん?なんでも。あ、布団あっためとけばよかったね、ごめんごめん。とにかくゆっくり休んで」
とりあえず言われるがままにベッドにもぐりこんだ。
あー、布団が冷たい。いっちゃんが恋しい。
少し感傷的になりながら、遠くで電話する声が聞こえた。あー、水曜の1時間目ってなんだっけ、確かー…。
「おはよう」
ぐっすり眠っていたらしい。目覚めはコーヒーの香り。そしていい男。…なんて理想的な朝なんだろう。ここが学校の保健室でなければ。
「いいなー、保健室の先生って…。雑誌読んでコーヒー飲んでればいいのか…。あたしも将来保健室の先生になろっかな」
「やめときなさいやめときなさい。就職口ないし教職はめんどいよー」
「じゃあなんで?」
「選んでる場合じゃなかったから」
なんて夢のない…と言いかけたがやめた。口ではそう言いつつ実際保険医になるつもりなど毛頭なかった。かと言って、ほかに特に胸を張って人に言えるような目標があるわけでもなかったけれど。
起き上がろうとした奈瀬は、途中で断念した。
今回はとくにひどいらしい。起き上がるだけで激痛が走る。
「なーに、またおねむ?」
「…」
「やだなに奈瀬ちゃん、もう寝ちゃった?」
「(奈瀬ちゃん…)」
ほんの少しでもどきっとした自分が恥ずかしい。
でも『奈瀬ちゃん』なんて、はじめて呼ばれた。
と、突然影に覆われた。
横向きになって寝ていた奈瀬は首をまわすと、すぐそばに冴木の顔。
「わ、」
「わ、とは失敬だね、こんないい男つかまえて」
「…いい男だって思ってるんだ」
「あのね、…あ、もしかして実は結構つらい?」
「…」
「よーし、ちょっと待ってろ」
冴木の影が一瞬消えて、でもすぐに戻ってきた。
と思うと突然布団をめくられて、薄いけれどあたたかな毛布をお腹のあたりに掛けられ、それから丁寧にふとんをかぶせられた。
「保健室のベッドの布団なんて寒いもんな、少しは変わった?今まで俺がひざかけにしてたやつなんだけど」
「…」
答えられなかった。うんうん、と頷くだけして、かぶせられた布団にもっともぐりこんだ。
「そりゃよかった。じゃあおやすみー。とりあえず1時間目終わったら起こすからさ、つってももうあと20分くらいしかないけど、まぁ安静に、ね」
頷こうとしたとき、頭に少しの重みを感じて、それからすぐにくしゃくしゃと撫でられた。
たぶんすぐそばに顔がある。でも布団から顔が出せない。
手が離れてゆくとき、なんとなくさびしくなった。
布団の中でただ必死に、毛布を握り締めながら顔の火照りを押さえつけようと頑張ったけれど、結局チャイムが鳴ってもそれはかなわなかった。
(20051107up)