昨日この道を通ったときとまるで同じように、伊角は息を切らして走っていた。
 別に走ってまで焦る必要はない。何時何分に、なんて正確な約束をしたわけではないし、そもそも偶然再会するわけなのだから、時間なんて守る必要はないわけで。

 とは言え、1本乗り逃がした電車のことを思うと、やはり悠長にのんびり歩いて、なんてこともできなかった。
 これは性格上、だからと言うより、きっとこの偶然が楽しみでしょうがないからだと、素直に思った。








「あ!」

 走ってくる伊角を確認して、すでに花屋に到着していたあかりは声を上げる。
 が、名前がわからないためそこで言葉の勢いは止まる。

「えーと、あの」
「あ、伊角、です」
「…伊角さん」

 ぽつりと名前を言ってみたものの、なんだか恥ずかしくなってうつむいてしまった。
 そんなあかりを見て、伊角はにっこり笑った。今日も相変わらず優しい笑顔だ。

「昨日は名前も言わずに別れちゃったからね」
「別に偶然のことだし、走ってくることなかったのに…」
「そうなんだけど、」

 そうなんだけど、と言ったまま伊角は言葉の続きが言えなかった。
 浮かんでくるのは自分にしてはひどくきざなせりふばかりで、とてもじゃないが素面で言えたものではない。
 不思議そうに見つめてくるあかりに気づいて、とりあえず笑って誤魔化した。

「それで、えーっと」
「あ、藤崎、あかり、です…」
「あ…、と。藤崎さん」
「ふふ、あかりでいいですよ」
「あかり、ちゃん」

 あ、と言いかけてやめたのを見かねて自分から提案したものの、あかりちゃんと言われて思わずどきっとした。
 男の人から名前を呼ばれることなんてそうあることではないうえに、あかりちゃん、だなんて!しかもこんなに顔を真っ赤にして。
 伊角につられるように顔が赤くなった。体温だって一気に2、3度上がったのではないだろうか?

「あ…そうだ。タオル、ありがとうございました」

 照れ隠しのように慌ててかばんの中を探り出し、伊角はハンドタオルを差し出した。
 ほんのり、洗剤のにおいが風に流されていく。

 どういたしまして、とにっこり笑ってそれを受け取ると、あかりはそれを自分のかばんにしまった。


 さて、しかし困った。これからどうしよう?

 今日は偶然に再会したのだ。タオルだって返してもらった。
 別にこれ以上ふたりでいる理由はないはずなのだが、お互いそれじゃあ、と言う気持ちにはなれなかった。

 沈黙を最初に破ったのは伊角のほうだった。


「あーの…、もしよかったら、だけど」
 少し顔を赤らめながら、人差し指で頬を掻くしぐさを見て、あかりはなんだかかわいいと思ってしまった。
「また…あの、今度は偶然じゃなく…、どこかで会いたいなぁとか思うんだけど」
「…はい!」

 あかりの返事に、伊角はわかりやすく喜んだ。伺うようだった表情が一気に明るくなった。
 なんだかとてもいいことをしたような気分になって、あかりは付け加えるように言った。

「でもその前に、ゆっくりどこかでお話しませんか?」

 伊角は優しい笑みを浮かべたあと、照れながら頷いた。
 それからごく自然にあかりの手をとると、ゆったりとした歩調で歩き始めた。


















「あー、春だよなー」
「あんたの頭の中は万年小春日和でしょ」

 青空を仰ぎながら、あたたかくなった空気に思いを馳せていると、間髪入れずに奈瀬のつっこみが入る。
 思わず蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られるが、ここはぐっと我慢。奈瀬ほど怒らせて損な人間はいない、と言うことは、長年の付き合いから言って和谷はしっかり心得ている。

「伊角さん、この女黙らせてくれ」
「それは俺には無理だってこと、お前が一番わかってるだろ?」

 自分より数歩後ろを歩いていた伊角に助けを求めるも、なんとも情けない答えで交わされてしまった。
 しかし実のところ伊角の言うとおりだった。いつだってふたりとも、奈瀬には頭が上がらないのだ。

 和谷と奈瀬と伊角は、小さい頃から仲が良かった。いわゆる幼なじみのようなものだと思う。
 伊角はひとつ年上だったけれど、そんなことは幼稚園とか小学校とかの組織に入るまで気にすることはなかったし、そうなってからも一緒に帰ったり休みの日は集まったりして、たいして気にもとめなかった。
 奈瀬はひとり女だったが、それを感じさせないくらい男ふたりよりしっかりしていて、そういう意味でもいいバランスを保ち続けていられたのではないかと思う。

「あーあ、また和谷と同じクラスなんてやってらんない」
「なんだよ、こっちから願い下げだっつの」
「まぁまぁ」
 なだめつつ、伊角はなんとなく弟と妹を見ているようで微笑ましい気持ちでいた。
 


 それからしばらくとりとめもない話をしながら歩いて、和谷の家がある路地の前に着いた。

「んじゃ、俺ここで」
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
「気をつけなくたって50メートルの距離の間に誰も襲ってなんかこねーよ!」

 振り返ることなく手をひらひらさせながら行ってしまった和谷をしばらく眺めてから、伊角と奈瀬は並んで歩き出した。



「あーあ、新しいクラスにもいい出会いは望めなさそうよ」
 奈瀬らしい悩みに伊角は思わず苦笑する。
「なんだよ、この前は会う人会う人に携帯番号聞かれて困るー、なんて言ってたくせに」
「…ただのホラよ」
「うん、知ってる」
「…!」
「奈瀬はなー、黙って見てればまぁいいけど、実際付き合うとな…」
「…何よ」
「あ、いや、なんでも、」
「…随分と言ってくれるじゃないの」

 肘でつつきながら、いつも通りの悪態をついた。
 これがいつもの風景。

 でも奈瀬の中に、今日はちょっとした決意があった。

「伊角くんは?春の気配は」
「…、別に?」

 一瞬、あかりの顔が浮かんだ。
 いやでもまだはっきりと付き合っているわけでもないし、今わざわざ言うことはないだろう。

「彼女どんくらいいないのよ…」
「うーん、別に気にしたことないし…」

 そうは言っても、奈瀬は伊角がそれなりにもてることを知っていた。
 もちろん本人はこうだからきっと気づいちゃないのだろうけれど、情けないようででも頼れるときは頼れる彼は、一部の女子から人気を博していた。


 奈瀬自身、そうだった。
 ただ、高校時代しか知らない他の女子とは違う。幼い頃から一番身近にいた男の人。
 幼稚園に通っていた頃、遊んでいて転んだとき、泣きべそをかく奈瀬をなだめてくれたあのときに抱いた想いが、最近になって復活した。

 ちょうど去年のこの時期だ。同じ高校に入学してきた奈瀬は、和谷を引きつれ伊角のクラスに冷やかしに行ったとき、可愛らしい彼女と仲良く話している伊角を見た。
 そのときの言いようもないさみしさと言ったらなかった。はじめて本格的に、彼に男を意識した。それからも男の子と付き合ったりもしたけれど、結局いまいち乗り切れずに恋は終わってしまうばかりだし、結局のところ想いははめぐりめぐって、戻るべき場所へ戻ってきたのだ。

 幼なじみというくくりで並べるなら、そこはもちろん和谷のほうが人気があると思う。
 しかも和谷は同い年だし、クラスまで一緒。一緒にいる時間は伊角よりずっと長いし、だからもしかすると、和谷を好きになるほうが自然なのかも知れない。

 とは言え、奈瀬は伊角を選んだ。
 先のことを自然にイメージできるのは、和谷よりも伊角だったのだ。


 別に今日言わなきゃならないことじゃない。ふたりきりになれるチャンスならいくらでもある。
 でも、なぜか今日言ったほうがいいような気がした。
 


「彼女、欲しくなったりしないの?」
「うーん、別に彼女がいなきゃだめ!みたいなことってそんなないだろ?」
「…好きな人、いないんだ?」
「好きなひと、ねぇ…」

 やはり伊角の頭に浮かんだのはあかりの顔だった。
 ああきっと好きなんだろうな、きっとこれから、とぼんやり思った。

 しかしそんな穏やかな気持ちを奈瀬は知る由もなく。



 奈瀬がすうと息を吸い込む。

「…あたしね、伊角くんのこと好きなんだ」


 びっくりされるとか、冗談でしょ?みたいな返しはあれども。
 そのときの奈瀬は、まさか悲しそうな顔をされるとは思わなかった。









(03/12/29up)
なんかユーガットメールとかでこんな会話あったような…って感じ。
にしても3話目でこういう流れか…今のあたしに、って、感じ。

しかもあれだ。自然に流れで、伊角さんが年上みたいな会話になってますが、そんな話してないよね…!
まぁ気づいたってことで。いいんだ、パラレルだから!(存在を理由にするな)