「雨?」


 学校帰りに、あかりがひとりでぶらぶらと買い物をしているときだった。
 突然頬にその感触を感じて、見上げてみたら真っ黒な雲。

 とりあえずどこか雨のしのげる場所へ行こうと、近くにあった花屋の軒先を拝借した。今日は休店日らしく、シャッターが閉めきられ花の香りは少しも感じられない。



 雨はしだいに強くなっていく。
 人通りもだんだんと少なくなってゆき、同じように店の軒先を借りている人や、手持ちの折り畳み傘を広げる人、さまざま。
 慌ててコンビニで傘を買っている人も何人かいた。


(お母さんの言うとおり、ちゃんと傘持ってくればよかったなぁ)

 今朝の母の言葉を思い出した。折り畳み傘を差し出されたが、今日は荷物が多くてめんどうだからと拒んだのだった。

 どんよりとした雲は、雨を落とすことをやめる気配はないようだ。
 雨音は激しくなる一方で、あっという間に水溜りがあちらこちらにできていく。
 走って駅まで行ってしまおうか、それともまだもう少し待とうか。降り続ける雨をみながら、ぼんやりと二択の答えを考えているときだった。


「あ、すみません!」

 突然目の前に、びしょ濡れになった青年が飛び込んできた。
 彼は髪や服から水を滴らせ、あかりの隣に立った。

 何も拭くものを持っていないのか、かばんを地面に置くと、まるで砂でも払うかのように髪や服を手で払った。
 もちろんそれには効果などなく、相変わらず髪から滴り落ちてくる水滴が目に入ったようで、小さく「うわ」と言って、まばたきを数回した。

 あかりはなんだか居た堪れなくなって、自分のかばんをごそごそとあさり始め、申し訳程度にしかならなそうなハンドタオルを取り出した。

「…あの、」
「はい?」
「ごめんなさい、こんなものしか持ってないんですけど、よかったら…」
「え、あ、いや、そんな、悪いですよ」
「でもびしょ濡れだし…、小さいから、あんまり変わらないかも知れないけど、気休め程度には」
「えーと、」

 青年は一瞬考えるような素振りを見せてから、すいません、と言ってあかりからタオルを受け取った。
 顔の水滴を簡単に拭き取ったあと、濡れてシースルーのようになったシャツに、適当にタオルを押し当てた。



(…背、高いなぁ)


 女子高に入ってからと言うもの、びっくりするくらい男子との接触が少なくなった。
 頭一つ分くらいもしかしたら違うかもしれない。もっと? 
 歳の近い男の子なんて、最近ちっとも見ていない。

 何の気なしに水滴を拭き取る青年を見つめていると、それに気づいたような彼はあかりのほうを見て軽く笑った。
 あかりは少しどきっとして、思わず目を逸らす。


「雨、止みそうにありませんね」

 青年が空を見上げながらぽつりと言った。
 あかりも同じように見あげてみると、いっそう暗くなった、空。

「そうですね…」
「まいったなぁ、今日は約束があったんだけど、こんなかっこうじゃいけないし…」
「大変ですね」
「まあいいんだ。そっちも荷物多くて大変でしょ?」
「ほんと。買い物しなきゃよかった」

 なんだか初対面とは思えない感じがする、とあかりは思った。こんなに人当たりのいい人に出会ったのは初めてだ。
 自然と会話をしながらなんとなく笑顔になっている自分に気づいた。

「あ、タオル、すみません。洗って返しますから」
「え、そんな、悪いですよ。たいして役にも立ってないのに…」
「…あ、そっか。偶然軒下で会うなんてことももうないのか」
「え?」
「はい、ありがとうございました。ほんとにありがとう」

 笑顔で差し出されたタオルを受け取ると、胸の奥にずきんと軽い衝撃が起こった気がした。
 偶然はない、その言葉がなんだか頭から離れない。



 それからしばらくの沈黙の後、気まずくなって話題を探そうとしているあかりは、ふと雨足が弱まっていることに気づいた。そういえば先ほど、向かいの店の軒先に立っていた男性がいなくなっている。見計らって走っていったのだろうか。

「あ、雨、弱まった?」
「今なら行けるかもしれませんね」
「駅までですか?」
「? はい、そうですけど…」

 あかりの返事を聞くと、彼は地べたに置きっぱなしだった自分のかばんを持ち、あかりが手にもっていた大きめの紙袋の持ち手も掴んだ。

「え、え、」
「俺も駅までなんで、よかったら一緒に」
「え、あの、だけど」
「俺軽装備だから。そんな大荷物じゃ走るの大変でしょ?」
「…でも」

 いいから、と言ってあかりからとても紳士的にその紙袋を奪うと、青年はやわらかく笑った。
 そして行こう、と言われてごく自然に握られた手は、駅につくまで一度も離されることはなかった。










 はぁ、はぁ、と息を切らせながらやっとのことで駅についた。
 お互い気づいて恥ずかしくなり、しっかり握り締めていた手をぱっと離すと、同じタイミングで苦笑いを浮かべた。

「えーと、それじゃあ、」
「あ、の!」

 回れ右をしようとしていたあかりの足はその声で止まり、再び青年のほうを向き直した。
 気のせいか、ほんのり顔が赤い気がした。走ってきたから?…なんとなく違う気がした。

「…やっぱりタオル、洗って返したいんだけど、だめかな?」
「え?」
「いつか、また学校帰りにでもふらっと、さっきの花屋に立ち寄ってみたりしない?」

 なんだかひどく遠まわしな言葉の中に含められた意味をすんなり読み取ることができて、あかりは笑い、少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。

「ううん、明日。明日、わたし花屋に用事があったの忘れてました」
「明日?」
「明日、です。たぶんきっと今日とおんなじくらいの時間に」

 











 そういえば名前も聞いてなかった。

 そう気づいたのはひとりで電車に乗り込んでからだったけれど、とにかく明日のことを考えると、頬が緩むのを止められなかった。