「おー、珍しいね」
「うん?」
慣れた様子で助手席にすべりこんでくる奈瀬の右手がいつもより気になったのは、その爪がきれいなオレンジ色に塗られていたから。
「爪。いつも塗ったりしないだろ」
「だって碁打ちですもの?」
そう言って顔の横で指をぴんと伸ばした。冴木のほうにきらきらと光るオレンジ色を向けながら。
「あら、じゃあ今日はどうしたの?もしかして久々のデートだから気合入っちゃった?」
「んー、と言うよりはー」
ちらと、買ったばかりの黄色いミュールを見やる。これを履きたくて、このミュールに合うオレンジ色をチョイスしたのだが。
「ペディキュア塗ってたらなんだか久しぶりにコッチにも塗りたくなった、って言う、興味?」
「…あらそう」
そういうきみの正直なところはとてもスキよ、と投げやりに言えば、ありがと、と軽く笑ってあしらわれてしまった。
シートベルトをしめたのを横目で確認して、ブレーキを踏みしめながらキーをまわす。
「明日は研修だろ?落とし忘れないように気を付けろよ」
「ぬかりなくやるわよ」
へたなウインクを見せ付けられたところで、冴木もようやくサイドブレーキを下ろした。
(や、ばっ…)
一手目を打つまで気が付かなかったのはまったくの失態だった。
休みで、久しぶりのデートで。気合タップリに準備していたのだ。実は。
そして今もピンと伸びた右手の小指の爪に、パールの入ったオレンジ色が光っている。
(もうっ、よりによって右手だなんて…)
だが悔やんだところでどうしようもないのだ。
すぐに研修の開始時間になってしまうし、碁を打つ以上は隠しようがない。
よりにもよってパール入りのキラキラ目立つ色というのが泣けてくるけれど。
(お昼休みにコンビニで除光液買ってこよう)
あきらめて目の前の1局に集中するほかないのだ。
棋院から一番近いコンビニは、昼時にはやはり院生が多くたむろしている。
それを知っているから普段はあまりコンビニを利用することはないのだけれど、時間も限られていることだしとあきらめ、なかなかに混雑している店内で、わずかに設置されている化粧品コーナーへ。
「お、不良娘」
「冴木さん」
なんで知ってんのよと眉をひそめつつ、除光液を手に取る。幸いコットンに染み込ませたタイプのそれがあったので、そちらを。
「ていうか今日って棋院だったの? 昨日はそんなこと言ってなかったのに」
「急遽予定変更。奈瀬ちゃん待ちながらロビーで対局中」
「そうだったの」
「ほらみろ、やっぱりうっかりしたろ」
「1本だけじゃない」
前もって連絡をくれないあたりが冴木らしいと思いつつ。
そういうささいなサプライズ的なことが好きで、よくかまされる。これまで付き合ってきた女性たちもそういう手口で喜ばせていたのだろうかと考え始めればきりがないのだが。
すでに昼食用の弁当を買い終えた冴木も、奈瀬とともに再びレジへついてきた。
「こういうことがあるとじゃあもう塗らなーいってなってどんどん怠ってくのよ。こうやってどんどん女は女を捨てていくんだわ」
「…飛躍しすぎ」
「そうかしら、きっとゆくゆくはこうなるのよ」
たかだか10代そこそこの少女が女、女というのもおかしな話だが。
だがやけに達観したような様子の物言いは、妙な説得力を持っていた。
「奈瀬ちゃんも?」
「…とりあえず今はキレイにして見せたい相手がいるから?」
「ちくしょー可愛いこと言ってくれるな」
除光液と一緒にレジへ置いたパスタの加熱時間が終わり、レンジが鳴る。
パールオレンジでばっちりかわいく磨いた指先を見せたい相手など、対局相手ではなく、たったひとり。
「だいじょぶだいじょぶ。オバサンになった時はわかんないけど、今だったら怠っても全然いただける」
「あたしがオバサンになる頃は冴木さんおじーさんじゃない」
「おじ…!」
冴木としてはいい雰囲気づくりの予定だったのだが。
思わぬ反論にもはや言葉を返すこともできず、呆然としてしまった。
「あ、いけない。そろそろ戻らなきゃ」
そしてそんな冴木にフォローの言葉もなく、彼女はあっさりと行ってしまうのだった。あわよくばコンビニ弁当のランチでもと狙っていた冴木の意図など汲まずに。
これはしっかりマニキュアを落としたあとの指を握り締めるべく、ディナー狙いに切り替えねば。
(20080317)