フンフンフーン フンフンフーン


 ときどき聞こえてくる楽しげなメロディーや浮かれた街の雰囲気に、ついつい鼻歌など口ずさんでしまう。
 別のこの雑踏の中では、こんなちいさな鼻歌を気に留める者などいないだろうし、と奈瀬はかまわず歌い続ける。

 今日はクリスマスイブ。予定は特にない。よりによって日曜日。最初は家でゴロゴロしていようとも思っていたのだが、再放送ばかりの昼間のテレビと、クリスマスムード満載のコマーシャルの乱れ撃ちに腹が立って、結局家を出てしまった。もちろん何をするわけでもないのだけれど。
 というより、街に出ると、ますますひとりでいることが悪いことのように思えてくる。なんでだ!そういえば以前「どうして彼氏作らないの」と聞かれたことがあった。バカデスカ。なんでもひとひねりして返すことなど朝飯前だと自負するこの達者な口が、そのときだけは役に立たなかった。バカデスカ。作れるんだったらとっくにいるぁヴォケがぁ!内心ではそう思いながら、モテないからですぅー、などと不自然に笑いながら返したものだ。

 もちろん寂しいと感じることもあるけれど、今は素直にひとりが楽しいと思っている。幸いなことに碁の仕事も忙しくなってきて、たとえば仕事の合間の時間をつぶしたりだとか、そうしているうちにうまくひとりで時間をつぶすすべを覚えたのだ。なによりだんだんと実力もついてきた実感もあって、とにかく楽しい。純粋に、碁を打てることが楽しいのだ。今度のリーグ戦は、いいところまでいけるかもしれない。いいや、行く。行ってやる。これまでのように1回戦や1回戦で消えたりなんて、もうしない。

 そんな決意を新たにしつつ、あてもなく歩き続けるのもなぁと、あたりを見回す。どこかに入ろうか。特に今取り立てて欲しいものはない。だけれど何か見つけてしまったら、一時のテンションに任せてうっかり買い込んでしまいそうだ。ひとりでいたって、やっぱりクリスマスはキラキラで楽しい。
 なんならいっそラッピングまでしてもらって、自分用のプレゼントでも見繕ったりしようかな。そういえば指導碁のイベントでバタバタ走り回ったから、パンプスがガバガバになっちゃってたなぁ。靴でも見ようかなぁ。

「あれ?」

 ふと、聞き覚えのある声が耳を掠めた。果たして自分に向けられた声だったかどうかはわからないが、条件反射で振り向き、探す。ああやっぱり。思っていた人物がそこにはいた。人通りが多いとはいえ、ぎゅうぎゅうで歩けないと言ったほどではない。それでもこんな道の真ん中で立ち止まるなんて迷惑極まりないと思うのだけれど。
 こちらを見ているということは、自分に気づいて声を上げたのだろうか。

「冴木さん」
「ちょっとなんだ、世間が浮かれた日にひとりで何してんの?」
「心外ー、たとえばこれからデートに向かうんですとか思わないの?」

 ひとりを寂しくないと思っても、こういうところでついつい反発してしまうのは性か。

「んー、どうだろうね。もしかしたらひとりであってくれという俺の願望かも」

 で、さらりと返されてしまう。これが年上の余裕か。そして不覚にも少女漫画のヒロインばりにどきりとする胸。ああバカじゃないの。またよりにもよって、ほかの誰でもない、このひとだなんて。

「で、どうなの。やっぱりかっこいい男の子と待ち合わせなんだ?」
「…嫌味ねー。あたしの勝負服知ってるくせに」

 勝負服、と言うか。確実に気合の入った日には、必ずパンツではなくスカートを履く。それも、たとえこの寒空の下でもがっつりミニスカート。間違っても今日みたいな、油断したジーンズにスニーカーだなんて、有り得ない。
 そういえばはじめてスカート姿を馴染みのメンバーの前で披露したとき、いやに騒がれた。だからついつい自分から勝負服だから出し惜しみをするのだと告白してしまったのだけれど。

「冴木さんこそどうなのよ。こんな日にひとりだなんて、冴木さんともあろう人が」
「ほらほら、だから俺がこれからデートの約束だとか思わないわけ?」
「ないわね。冴木さんは付き合った相手にはたばこの匂い嗅がせないもの」

 近寄ってはっきりとわかったヤニ臭さ。長年慣れ親しんだそれは自分にはなんの抵抗もないのだけれど、このフェミニストはやたらと気を使う。自分の前では別だったけれど。
 とはいえそれを不快に思ったことはない。むしろ碁打ち同士として肩を並べられているのだろうかとか、仲間として気を許せる相手なのかなとうれしくなったし、そうじゃないほかの部分で、たとえば飲み会の帰りに送ってくれるとかそんなささいなことで、きちんと女として扱われていることを実感できていたから、特にそれに対して腹を立てたことはなかった。

「もー、そこいらの女の子よりよっぽど奈瀬ちゃんのが俺のことわかってるからねぇ、これだからいやだよもー」
「でも珍しい。冴木さんだったら首尾よくクリスマスを過ごす相手とか見つけてそうなのに」
「…あのね、別にひとりだっていいじゃないの。最近まわりがやかましいんだよねぇ、いい年なんだからとかどうとか」
「えーショック!冴木さん結婚するの!?」
「だから相手がいないって言ってるでしょうよ」

 もー、ともう一度こぼす冴木を見て、実は心底ほっとしていた。
 それはなんだろう、彼に家庭のイメージが結びつかないとか、純粋にそういった驚きとかいう感情からなるものだと思った。

「で、それで奈瀬ちゃんはこれからどうするわけ? 友達とか?」
「まさか。なんも予定はないけど、家でゴロゴロするのに飽きたから出てきたところ」
「…本当に何もないんだ。年頃の女の子が」
「ちょっと! そういう憐れんだ目で見るのやめてくれる!?」 

 実際にはクリスマスというイベントをまったく忘れていて、予定を立てようにも気づいたときには3日前だった、なんて悲しい話しかないわけで。
 もしかしたらそれでもつかまる友達はいたかもしれないけれど。それこそ忙しい最近を思うと、1日くらい何もしない日があったっていいんじゃないかと思ったのが正直なところで。結局、楽しみたい相手がいなければ、こういったイベントごとにはとても疎くなってしまうと実感していた。

「ごめんごめん。じゃあたとえばだけど、今日これからかわいそうな独り身の男に付き合う気とかはない?」
「…でも冴木さんこそ、これから何かないの? 別にあたしだったら気を遣ってもらわないでも、ひとりでも、」
「残念ながら、結構俺も寂しい人間なのよね、それにね、」

 犯罪級の、だれかを口説き落としたいときに使えばおそらくイチコロであろう最高級の笑顔を惜しまず向けて。

「ひとりもいいけど、出先でかわいい女の子見かけちゃったら、やっぱりナンパしとかなくちゃねぇ?」

 一緒に院生として棋院に通っていたころ、ほのかにあこがれていたひと。それが兄に向けるような憧憬だったか、それとも恋だったかはいまだにわからない。けれどいまだにこのひとにはあこがれ続けている。いいやそれは一生変わらないのかもしれない。今日だって顔を見た瞬間、ふわりとうれしいようなくすぐったいような気持ちが、体中をめぐった。
 だから、このひとのまえでは、いつだってカッコつけて、最高に素敵ぶった自分でいたい、のだけれど。

(やばい、コートの下、適当に引っ張り出したTシャツだ)

 なんとかして、コートを脱がずにすむ場所でやり過ごせないだろうか。
 今日ばかりは女性として扱われるより、昔のようにケンタッキーあたりで満足するような子供と思われたいと、ひそかに願った。
(20061224)