「冴木さん、あの…」

 奈瀬が言いよどむことなど、めったにあるものではない。
 口が達者で、大抵の相手ならばうまく言いくるめることもできる奈瀬が、どうしたことか、ただひとりの男の前でだけは、普段の勢いを発揮できないでいるのだ。


「んー?」
「えーと…、あ、うん…なんでもない…です」

 内心では気味が悪いと思いながらも、怒らせることは得策でないだろうと、冴木はふぅんとだけ言って奈瀬から目をそらす。
 かれこれ、1時間近くこうしている。いや、ここ最近は、顔を合わせるなりこうだった。
 口を開いては言葉を飲み込み、こちらから話題を振ってみれば、他人行儀に「はい」だの「そうです」だの心ここにあらずといった様子である。
 出会った頃は小学生だった奈瀬も、最近めっきり女らしくなり、冴木としてもなかなか気になる存在である。2人っきりになれるのは嬉しいのだが、当の奈瀬がこうでは、ろくに話もできやしない。

 どうしたものか。すでに読みきってしまった雑誌を手放したタイミングで、和谷からのメールが冴木の携帯を鳴らす。
 悪いけど今日はかなり遅れそうだから、研究会は各自に任せる、とな。
 いやいや、その研究会の会場を用意しているきみが来なくてどうするのよ、そう思ったのは最初のうちだけだ。研究会の常連には合鍵を渡されている者も数人いるくらい、なんともオープンな和谷宅。いつしか常連たちは、和谷ではなく合鍵を持った者に参加の是非を問うようになっていた。
 どうせ何もない和谷の部屋は、好き好んで訪ねようという者もあまりいない。ときどき近くで飲んだ日などに、帰るのがめんどくさくなって宿代わりにさせてもらったことはあったが。

 一応、予定の時刻は30分前に過ぎた。今のところ誰も来ない。おそらく今日は誰も来ないのであろう。つまり、ふたりきり。
 この状態のまま和谷の家でじっとしていても仕方がない。冴木はうーんと伸びをして、ゆっくりと立ち上がる。
 
「出ようか。和谷も遅くなるみたいだし」

 差し出した手は、躊躇いながらもしっかりと握られた。




 暗くなりかけた道路には街頭もところどころしか設置されていない。
 女の子をひとりで歩かせるには危ない道だなぁとぼんやり思いつつ、離すタイミングを逃して、相変わらずつないだままの手に力をこめる。
 と言うより、靴を履くときも扉を開けるときも鍵を閉めるときも、わざわざ離さないように気をつけていたといったほうがきっと正しい。

「冴木さん?」
「んー?」

 強く握られた手が合図とでも言うように、奈瀬がまた例のように遠慮がちに冴木を呼ぶ。

「なーによー」
「…う、ううん」
「もー」
 
 冴木はどちらかと言えば聡いタイプの人間である。
 ここ数日、奈瀬が何を言わんとしているのか察しはついていた。
 気まずそうにしているわりには、冴木の傍を離れようとはしない。物憂げなためいき、ちらちらと見つめてくる瞳。予測はほとんど確証めいている。

 やはりこちらからアクションを起こすのが大人の対応なのだろうか。それでもやはり本人の口から聞きたいと思うのは、単なる思い上がりでしかないのかもしれない。
 
 それにしても、意識し始めてから数日間。まったく進歩する様子の見えない奈瀬には、そろそろ助け舟くらい出してみてもいいかもしれない。


「さみしいね、気になる女の子が自分だけによそよそしい態度とるなんてさ」

 驚いたように瞳を見開いて見上げてくる顔に、にっこりと笑いかける。
 さて、次はきみの番。


(061014初出/5周年記念企画)