「ピーンポーン」
はて、我が家のチャイムはあんなきれいなソプラノだったか。
君の目の前にあるボタンを押せば、そなえつけのそれがちゃんとした音を鳴らしてくれるというのに。
はじめて肉声のチャイムなど初めて聞いた冴木は、しばらく茶番に付き合ってやろうとドアの前に立った。
「はぁーい、どちら様?」
「世紀の美少女です」
あまりにナチュラルに言われたので思わず聞き流すところだったが、これはかなりハイレベルなジョークだ。彼女が対冴木にだから使える、そんなジョーク。
笑いをこらえながら、冴木も応対する。
「世紀の美少女が何の御用で?」
「…あの、人が来たのでそろそろ開けてください」
耳を澄ますと、コンクリートにコツコツと響くヒールの音。先日越してきた二つ隣のOLさんだろうか。なんだかちょっとこの間見に行った踊る大捜査線の映画に出てくる真矢みきに似ていて、近寄りがたい印象を受けた。
焦っている奈瀬の顔を思い浮かべるとおかしかったが、仕方ないなぁとドアを開けた。
そこにはわかっていたが、奈瀬。しかも、
「(ニッコリ)」
今まで見たことのないくらいの満面の笑み。
「…?(つられてニッコリ)」
よく状況がつかめずにいると、奈瀬が突然冴木に抱きついてきた。正確には、しがみつくと言ったほうが近いだろうか。
(うわ、玄関で…大胆だなぁ)
とりあえずドアを閉め、戸惑いながらもしっかり腰に腕をまわしながら、キスをせがむ顔をしてくるのを待っていたが、合図はいっこうになく。
仕方なくこちらから仕掛けようと、目尻の近くに唇を寄せるが交わされた。
…どうやらこれはそういうことじゃ、ない?
「…奈瀬ちゃん?」
「残念。今日は抱かれにきたんじゃなくて抱き締められに来たの」
また難解な。
毎回このお嬢さんには振り回されているが、しかし今日は困った。
さっき火にかけたやかんが気になる。まだすぐ沸騰、そんなことにはならないとは思うが、やはり危ない。
冴木はキッチンをちらと見て、奈瀬に一度回した腕をまたしっかり回し直した。
「…どうしたの?」
「うん?」
「何かあったんだろ?言ってごらん」
「なんでもないよ」
なんでもないならどんどん俺の胸に染み込んでいくこの水分はなんなんだ。
しかし冴木はそれを言わずに、片方の手で奈瀬の頭をよしよしと撫でた。
「うわーん、冴木さんがあたしを泣かすー」
「なんだよー、」
「冴木さんによしよしってされるの、素直に嬉しい」
「あらあらまた、かわいいこと言っちゃって」
「うるさーい」
「ティッシュもって来ようか」
「…鼻水は出てないわよ」
こういうことは、口を開きたくなるまで待ってやるのが一番だ。
そういえばいつかこの子に言ってやったっけ、と頭を撫でる手を止めて、ぎゅうと抱きしめ直しながら思い出す。
つらいときはいつでもおいでよ、と。
あのときはそうだ、伊角にふられたと言ってわんわん泣いてた彼女をなぐさめて。
何があったのか、特に責めたてることはしない。
かといって特に優しい言葉をかけるわけでもない。
いつもどおり、いつもしているようなくだらないおしゃべりと同じテンションで言葉をかける。
これが、冴木流の慰め方。
奈瀬もそんな方法がどうやら心地いいらしく、色々な相談事を持ちかけられるようにもなった。
思えばそこから恋が始まったんだっけと、ガラにもなく恥ずかしい言い回しのナレーションをつけて回想を終わらせた。
と、奈瀬も落ち着いたのか、顔をごしごし冴木の胸元でこすってから顔をあげた。
「…いい度胸、」
これ高いのに、とすっかり水分のしみこんだシャツの胸元をつまむと、真っ赤な目をしてにっこり笑う奈瀬を見下ろした。
「すっきりした」
「そう?俺はむしろここらへんじっとりと不快」
腕の中からすり抜けていく奈瀬に、さらにつまんだシャツをパタパタとさせながら言った。
「脱いだらいいじゃん」
「脱いだら?…、ほーう、へぇえ?」
「お、っと。悪いけど傷心なのでえっちいことはできましぇーん」
言おうと思っていたせりふを先に奪われ、口をもごもごさせてごまかした。
まぁ勿論、こんな涙目の奈瀬をどうこうするつもりはなかったが。
「しっかしきみブッサイクだねー、」
「うーるーさーい」
「泣くときの相手に俺以外を選ぶなよ。そんな顔見てヒかないの、寛大な俺くらいだから」
「あああもうー!むかつくわねほんとに!」
もう奈瀬は、そのブサイクになったツラ以外はまったくいつもと変わらなかった。
漫画のように大げさに怒るので、ごめんごめんとなだめると、歳の割にはやけに大人びた笑い方をして、言った。
「ありがとう、ね」
「…ん」
なんだか、いい雰囲気だ。
冴木がそっとその泣きはらしてぐしょぐしょになった顔に手を伸ばしかけたときだった。
ピーーーーーピューー、
まぬけな笛の音…。
沸騰を知らせるやかんの合図。
去年の暮れにあった、森下門下の忘年会のゲームでもらった、笛の音の鳴るやかん(これがなんで優勝商品なんだと今でも不満が残る一品)。
ふたり同じタイミングでキッチンに振り返り、また同じタイミングで顔を戻した。
伸ばしかけたまま宙をさまよっていた手をとりあえず下ろすと、きまりが悪そうに、苦笑。
「…今度、なんかメロディー流れるやつ買ってこようかな」
いいわよ別に、そう言いながら奈瀬はぶっさいくな顔のまま爆笑した。
冴木はピューピュー鳴り続けるうるさいやかんを急ぎ黙らせた後、続いて静かな部屋にこだまする笑い声をそっと、止めた。
(2003/08/15)