『キスなんか浮気のうちに入るわけないじゃない、カラダの関係があってはじめて、よ』

 よくあるテレビ番組。最近また増えたなと思うけれど、やっぱりいつの時代も男女のごたごたって言うのはみんなが楽しめる娯楽らしい。
 これもそんな番組のひとつで、いわゆる恋多き女だとか言われている女性タレントの発言。


(アメリカじゃねーんだからキスはもう浮気よ、浮気)

 あのときはぼんやりとサラダせんべいなんかをかじりながらそれを聞き流していたわけだけれど、それはその話題が自分とかけ離れたところにあると思っていたからで。結構、どうでもよくて。
 だってまさか自分がそうなるとかって、思いもしなかったわけで。













「なんなのよ」

 朝からただでさえ機嫌が悪いと言うのに、ここに来てからと言うもの不快指数はさらに上がっていく一方だった。

「だからごめんて、」
「…なんかもーここまでくるとしょうがないよねとか言うフォローのことばも出てこなくなる」

 家について、ドアをノックして、ドアを開けられて、いつものように有無を言わせず上がりこんで、直後。
 今日のやつの一言目。

 ごめんなさい、今日はもう帰ってください!


 いや、意味が。

 研究会とか勉強会とか手合いとか、自分も同じ碁打ちだし都合はそれなりにわかるつもりだし。
 とは言っても、今日のコレがはじめてじゃない。こないだだっていざ家を出ようってときにメールでキャンセル、その前も家を出て電車に乗り込んでからキャンセルのメール。
 
 そりゃもう今日はこうして面と向かっちゃっているわけですから。文句だってばんばん言わせて頂こうと。
 というか、考えるまもなくどんどん自分の顔のテンションが下っていくのがはっきりわかって。

 きっとひどい仏頂面だ。こんなシーンじゃなきゃきっと誰もがこの顔を見て笑うと思う。


 ていうか。
 付き合い始めて1ヶ月って、きっとまだたいていのカップルが、言うなればラブラブ?みたいな状態じゃなかろうかと思うのだけれど。

 いいんだろうかこんな冷え切ったと言うか。


 なんなんだろう、どうしてこううまくいかないんだろう。
 とにかくこの場にいたくなくなって、もういいよと言ってさっさとその部屋を出た。



(今好きですかと聞かれても笑顔でYESを言える自信はまったくない)

 特に行くあてもなく、かといってすぐに家には帰りたくなくて、とりあえずとぼとぼと歩いていた。
 途中、何度も何度も携帯を見た。百歩譲ってメールでもいいからと、センターに問い合わせてメールがひっかかってないかも確認した。
 
(なんのフォローもないんですか…)

 一気に力が抜けてしまって、なんとなくその場にしゃがみこんだ。
 ここが人がたくさん通る道でなくてよかった。















「…奈瀬ちゃん?」


 もし声をかけられていなかったら、一体いつまでそこにいるつもりだったんだろう。

「冴木さん…、」
「どうしたの、こんなところで」
「どうした、うーん、どうしたんだろう」
「なんだそれ」

 冴木は奈瀬の前に同じようにしゃがみこむと、奈瀬の頬にそっと手の甲をあてた。
 こんなに傍で冴木の顔を見るのははじめてだった。整った顔、色素の薄い髪に肌、ああそりゃあ、こんなに近くで愛を囁かれたら誰だって落ちるでしょうと、奈瀬は棋院でよく聞く冴木の浮名をいくつも思い出した。

「冷たいな、」
「え?」
「いつからこうしてるの?」
「…ううんと、」

 まずこの状況をどう説明しようかと答えあぐねていると、突然冴木が奈瀬の手を引いて立ち上がった。
 戸惑いながら冴木を見つめていると、ここじゃなんだしと冴木は優しく微笑んでから、奈瀬を促した。

 手は、つながったままだった。
 だがお互い、特に気にしなかった。
 






「ハイ、ドーゾ」
「…ありがとうございます」

 しばらくとりとめもないことを話しながら歩いていたが、手ごろな場所が見つからず、結局適当な歩道脇の植え込みに腰をおろした。
 それからも冴木がちょろちょろとどうでもいい話題をふっていたが、落ち込む奈瀬はうまくことばを続けられずに、その度に会話がぶつぶつと切れた。
 おそらく何度となくため息をこらえたことであろう、冴木がぽんと奈瀬の背中を軽く叩いて、ちょっと待ってろと立ち上がった。どこかに行くその背中を見つめて、奈瀬は代わりに大きなため息を吐いた。

 そして今、差し出された缶コーヒーを受け取りながら、ぼんやり自分は利口じゃないな思う。一応恋人間の問題を、遠い第三者に迷惑をかけるようなことは。


「…ごめんなさい」

 あたたかな缶を握ったり頬に当てたりしながら暖を取っていると、奈瀬がぽつりと言った。
 まだ秋だが陽が落ちてからは少し肌寒い。

「冴木さんもしかして、和谷のとこ行く途中だった?」
「んー、まぁね…」
 言いづらそうにしている冴木の様子から、おそらく何のことで落ち込んでいるのかは気づかれているんだろうなと悟った。

「そろそろ話せる?」
 奈瀬がゆっくり頷くのを見ると、冴木は自分のコーヒー缶のプルタブに指を掛け引きあげた。



 和谷がしんどい


 絞り出すような声でやっとそれだけ言うと、じんわり、目じりが濡れ出してきたのを感じた。

「…何かされたの?」
 冴木の声のトーンはやたら優しい。なぜだか心地よく騙されている気になった。
「されたって言うか…、なんかもうどうとも思われてないみたいで」
「なにそれ」
「碁打ちの苦労はわかってるつもりなんですけど。だから逆にわがままが言えないというか。…いっそ何も知らなきゃたくさん文句も言えたんだろうなぁとは思いますけど」

 ああ、と言いながら冴木はコーヒーを啜った。
 ぼんやりと見えてきた。あの和谷のこと、おそらく碁を優先にしてろくすっぽ相手のことなど考えずに勉強会だの仕事など予定を入れまくっていたのだろうと。
 現に前回の和谷宅での勉強会のとき、やけにまじめな顔でメールをうっていたが、こういうことだったかと冴木はやけに納得した。



 和谷は冴木にとって可愛い弟のような存在だった。
 同じ門下の人間として長い間ともに碁を学んできたし、お互いいいライバル・仲間として励んできた。

 それは碁を離れても当然同じで。
 
 奈瀬のことは以前から和谷から相談を受けたりしていたし、それを受けて積極的に奈瀬と関わるようにもなって、どんな女の子かもそれなりに知った。
 いい子だなぁ、と思った。だから和谷を応援していたし、奈瀬と付き合い始めたと嬉しそうに語られたときは思わず一緒になって喜んだものだ。

 最初は和谷をもし困らせるような女の子だったらどうしようかとさえ思っていたが、まさかこんなことになるとは。
 冴木はため息をついた。それは和谷に対する呆れだったのだが、奈瀬は気にしてしまったようで、また小さくごめんなさいを言ったのが聞こえた。


 残りのコーヒーを無理やり流し込んで、言った。
「つらい?」

 冴木の問いに、答えづらそうにして奈瀬は苦笑した。
 さっき手渡したコーヒーには口をつけていない。一応考えて甘めのものを買ってきたのだが、それでも好みに合わなかったのか、それとも。

「つらくはないですよ。平気です」
「泣きそうな顔で言われても説得力いっさいないよね、」
「…、こーやっていっつも傷心の女の人にやさしくしてあげてるんですか?」
「…それはどういう意味?」
「なんだか嘘でもいいや、って、思う」
 持っていたコーヒー缶を置いて、冴木の服のすそを引っ張った。
「やっぱりつらいとき嘘でも優しくしてくれる人の傍にいたいって、」
「…しないよそんなこと」
 
 さっき、騙されている気がしたのがわかった。
 騙されてもいいから傍で慰めてくれる人が欲しかったのだ。

 冴木を不機嫌にさせてしまったのは申し訳ないと思うが、そうでもして突き放さなければおそらく本当にこのまま、いいやと思ってしまいそうな自分がこわかったのだ。


 冴木のすそから手を離し、もう行きますと言って立ち上がった。
 が、冴木が行こうとする奈瀬の手首を強くつかんで、それを止める。

「冴木さん、痛い…」
「誰にでも優しくなんか、ないよ、俺は」

 なんでそんなことを言うんだろう、言って彼に何の得が。
 突然奈瀬の鼓動が早まりだした。

 しなくていい期待がどんどん膨らんでしまう。


「君がもっとわがままで文句ばっか言う子なら、さっき道で見かけたって知らん振りしてたよ」


 冴木が立ち上がって言った。
 睨みつけるようなこわい目をして、手首をつかんだ手にはどんどん力をこめて。


 最初は和谷の好きになった女の子がどんな子なのか、そんな興味本位から。
 和谷には幸せになって欲しいと言う兄弟子としての想い。

 いい子だなと思っていた。ずっと。
 ただ、和谷と一緒に自分を慕ってきてくれる奈瀬のことを、和谷に対するのと同じ感覚で「妹のように」見ることはできなかったと言う話で。
 

「君のことどうでもいいふうに扱うような男、和谷だって許さないけど」
「…冴木さん、」


 予感が、した。ごく期待に近い予感が。たぶんこれからどうされるかと言う。

 じっと見つめられた。何を考えてるかも読まれている気がした。
 自分の中のストッパーが、もう効かなくなってしまった。
 そうされたいと思っていた。だから、サインとなることばを。




「つらくないわけ、ないよね…」




 そのまま腕を引かれて、瞬間、気がついたときには冴木の腕の中にいた。
 されたいと思ってその合図をしたのに、やっぱり心拍数は上がる一方で。



「なんでつらくないとかいったの、」

 ぎゅう、と抱きしめる腕に力が入った。
 苦しいほどの力がなんだか心地よかった。今だけは自分が彼のものなのだと錯覚することができたからだ。

「…ごめんなさい」
「言ってよ、なんで、俺ってそんなに信用ないかな」
 仕方ないことだけど、と笑って言うのがあまりにもつらくて、奈瀬も宙ぶらりんだった腕をその背中にまわしてみた。
「ごめんね、」
「なんで君が謝るの」

 冴木は、少し仲のいい碁の先輩。
 和谷は、今付き合っている彼氏。

 そもそも冴木との出会いは、そんな和谷を経由して。
 歳も少し離れていたし、女にだらしないだとか嫌なうわさもいくつか流れていたから、奈瀬にとってはどこか近づきがたく、だけどたまに会ったら楽しくおしゃべりできる、適度な距離を持って接していた人。



 今冷静になって思えば、なんでそんな人に今こうして力強く、和谷にもそうしてもらったことがないくらいに強く抱きしめられているのか、まったくわからないのだけれど。

 だけれどとてもこれは自然ことだと、ちっとも自分の中に疑問が浮かび上がらない。
 ゆっくり静かに、冴木のことばを耳と体で聞いていた。伝わる声と振動をゆっくりかみしめて。


「わかってるからとか、そういう物分りいいようなこと言うな、かわいくない」
「…うん」


 体を離してしばらくしてから重ねた唇が熱くて、なんだか脳の中まで溶けそうになった。
 たぶんこんなキスは、あの人の判断でも浮気のひとつに入るんじゃないかと、思った。

 かすかに携帯の着信音が聞こえた気がしたけれど、気にしなかった。





(2003/08/12)
おおおおおおおおぉお。
どうしよう、収拾つかなくなってきたのでさようなら。
和谷きゅんごめそ。ゴメソゴメソ。チミはいっつも悪モンだな!

季節が謎。