冴木さんに言われたことがあまりにも正論だったからだと思う。
あの日ただただ泣いていたのは。
だけれどそのあとすぐに電話で呼び出した相手にあいつを選んだのは、あたしのそういうサイテーなところなんだと思う。
「なんだよ明日美ッチャン、へんな顔」
言われて初めて手持ちの鏡をのぞいた。
うわぁひどい顔…、泣き腫らした後の顔がひどいのは自分でもよくわかっていたけれど、よくもまぁこんな顔をさらして歩いてこれたものだと自分でも驚く。
思わずため息でもつきそうになった奈瀬を、加賀はぐいと頭を抱き寄せた。
(なんで普段俺様なくせにこんなときばっか優しくすんのよ)
ついさっきまで別の男の顔がもっともっと傍にあったのに、こうしてぎゅうと腕の中におさまるのはやっぱり悪い気がしない。
確かに言い訳でしかなかった。
どっちも好きだった。
自分で選ぶことができなかったから、逃げたのだ。冴木の言葉に。
妹みたいだと言う言葉に。
ああこの人は自分と恋愛をしてくれるつもりはないんだって。
そう思って勝手にあきらめてたって言うのに。
今更、って、言いたいのは、こっち。
「…好きな人ふたりできたとき、あんたどうやって選ぶ?」
「今日奈瀬来ないな」
和谷と対局中の伊角がつぶやいたのを聞いて、胸の奥がきゅうと締め付けられるのを感じた。
「ああ、なんか色々立て込んでんだってさ」
そうさせた原因はここにあるんだけど、と冴木はぼんやりいつもなら奈瀬が座り込んでいるあたりを見ながらため息をつく。
泣かせてしまったのは悪いと思っているし、やっぱりできればいつだって笑った顔を見ていたかった。
みすみす手放すようなマネをしてしまった自分がにくい。すぐに応えてやっていたならと、勿体つけるような態度をとり続けて、反応を楽しんでいた自分に後悔もした。
しかし何より、いつもなら近くでころころ笑うのを見ていられたこの時間に、今もしかして別の男の腕の中にいるんじゃないだろうかとか考えると、そんな自分の汚点も見えなくなるほどむしゃくしゃするし、だけれどこのあいだの涙を浮かべた奈瀬の顔を思えば、このこみ上げてくる想いはどこへ向けたらいいのかだとかと言うのが、ちっともわからなくなってしまって。
突き放すようなことをしておいて、それでもやはり傍に置いておきたいと思うのは、事実であって。
思ったよりもよっぽどちゃんと恋愛できる覚悟があったんだなと、今改めて思う。
じゃなかったら、このやりきれない気持ちはなんでここまで大きく広がっていくのだろうか。
こうまで会いたいと思うのは。
「俺は今更手放すつもりねーけど」
「…何よ一度だって好きともなんとも言わないでこんなときばっか」
「お前にそのままその言葉返すわ」
冷たく言い放たれたその言葉に、さらに返せる言葉なんて思いつきやしない。
誰が悪いんだろう、無理やりでも誰かのせいにしたくて、色々なこじつけをしてみたところでやっぱり責めるまでには至らないのは、結局自分が一番悪いと自覚をしているからで。
だけれど今一番しんどいのは、冷たい言葉を吐き捨てながらも、ぎゅうと自分の体を抱きしめる加賀の腕はいっこうに緩まずにいて。
せめて突き放すように離れてくれたらいっそいろんな覚悟もできただろうに。
反省とか懺悔とか、たぶん今まで生きてきた中で、ありえないくらいの考え事を一瞬にしてした気分だ。
だがそれでもまだ、結論は出てこない。
ちゃんと出るのか、うっすらと射す光さえなく。
この人もあの人も、どっちも選べないなんて言ったら怒るんだろうなとか、やっぱりぼんやり考えながら、体中の力を抜いた。
途端に眠くなった。疲れた。とにかく、疲れた。
目が覚めるとすぐそばで赤い髪がゆれていた。
いまいち働かない脳をなんとか動かしてみる。
加賀鉄男を呼び出して家まで流れ込んで告白をして抱きしめられて疲れて。
そうだそのまま結局寝てしまったんだっけと、隣で適当に寝そべっている加賀の顔をじいと見つめた。
(ベッドの上まで運んでくれただけずいぶんと優しくなったわね)
今までならきっとそこらへんに転がされていたままだったろうと、やわらかなふとんをぽんぽん叩きながら、奈瀬はゆっくりと起き上がった。
(むかつくくらい整った顔、)
休まらないヤツ、とつぶやきながらどこかムっとしているような顔つきの加賀を再び見つめた。
少しだけ開いていた窓から吹き込んでくるゆるい風で揺れる赤い髪にそっと触れてみた。
この髪の光に透かしたときの色が好きだった。
「…なんだよ」
離して、もう一度触れようとした手が捕まってしまった。
「べつに」
おもむろに加賀が起き上がり、顔を近づけてきた。
少し嫌な予感がして、奈瀬は体をずらして座りなおした。
しかし加賀は奈瀬のやんわりとした拒否を聞き入れず、肩を掴んで首筋に唇を寄せてきた。
昨日冴木にされたそれと同じ場所に、
「や、め、てよ」
加賀の胸に手をついて突き放した。
ここにだけはキスされたくないと思った。
何度か、このベッドの上で肌を重ねたことがある。
加賀のことだけを想って。そのときは、それだけ。
加賀と知り合ってすぐ、加賀から好意を向けられていることは気づいていた。
でもそれでも冴木への気持ちは変わらずにあったし、勿論「妹みたい」だなんて言われたところですぐには引き下がらなかった。
けれども。
やっぱりなんて言うか、向け続けられる好意は悪い気がしないし。
いっこうに応えてもらえない想いと言うのはしんどくもなるし。
そういう色々が重なって、気づいたときには加賀の腕の中にいた。
最初はそうした成り行きだったはずが、本気になるには時間はちっともかからずに。
反対に薄れていきかけたのが冴木の存在。
しかしそれもまた絶妙なタイミングでの浮上。
「…無理だと思う」
「なんで、」
「しばらく、って言うか、わかんないけど、ずっと。たぶん選ぶことなんかできないと思うし」
「…それで?」
「あんたのおかげで忘れかけてたけどやっぱり冴木さんのことは好きだったし、だけどそれで辛くなったとき一番最初に頭に浮かんだのはあんただった」
ベッドから下りて、少し乱れた服を簡単に調えた。
そういえば無断で朝帰りだなんて。まったくこういうとき実家だと色々めんどくさい。
「会うのよそう、もう」
「…あのなー」
「とにかくちょっと昨日いっぺんにいろいろ考えすぎて疲れた。帰って寝る」
「聞けっつんだよ!」
玄関に向かおうと背を向けた奈瀬の腕を掴んで無理やり引き止めると、加賀も立ち上がって奈瀬の正面に回りこんだ。
朝の加賀鉄男はいつも不機嫌だが、それとは違う苛立ちがハッキリと見て取れる。
「もっかい言うぞ、俺は手放す気はないからな」
「…だからね、」
「冴木さんだかなんだかしんねーけど! …俺の選択肢はお前しかねんだよ」
だからそれはきっともっと別のシチュエイションで聞けていたなら素直に喜べていただろうに。
目の奥で熱くなるものを感じながら、奈瀬は加賀の手を振り解いてそのまま振り返らずに部屋を出た。
(03/08/31)